HISTORICAL PERSON · 紀元前1250没

Nebettawy

ラムセス2世の5番目の王女で、8人の大王妃の一人。名は「両国の女主人」の意。アブ・シンベル大神殿の巨像に王妃の装いで描かれ、王女の行列にも登場する。大王妃の称号は死後に贈られた可能性が高い。

生涯
紀元前1250没
死亡地
エジプト・アラブ共和国(ワーディー・ゲディード県 / エジプト)
出生地
エジプト・アラブ共和国(エジプト)
出典
世界地図
エジプト・アラブ共和国(ワーディー・ゲディード県)

伝記

ネベトタウィは、古代エジプトの王女であり王妃でもあった人物で、ファラオ・ラムセス2世の第5王女にして、8人いた大王妃の一人である。名は「両国の女主人」を意味する。王妃ネフェルタリの娘であった可能性はあるが、まったく確実とはいえない。フランス語圏の記述では、アブ・シンベル大神殿の正面にある像を根拠に、ネベトタウィ、ビント・アナト、バケトムトらをネフェルタリの子とみる研究者がいたが、これを疑う見方が示されている。ネフェルタリとその子らに捧げられた小神殿の正面には、これらの王女は一人も現れず、したがって彼女たちはネフェルタリの娘ではなかったことになるというのである。

ネベトタウィはアブ・シンベル大神殿に表されている。神殿前の南側第2の巨像では、王妃の装いをした姿が右脚のそばに置かれた。短い鬘と簡素な冠台、二本の羽根を着け、左脚のそばには同じく王妃の装いのビント・アナトが立ち、巨像の前には名の伝わらない王女が立つ。大神殿に描かれた王女たちの行列では、ビント・アナト、バケトムト、ネフェルタリ2世、メリトアメンに続く5番目に現れ、一同はシストルムを手にしている。ほかの王女行列でもたいてい5番目だが、アビドスのセティ1世の神殿では3番目に現れる。デイル・エル・メディーナ出土でルーヴル美術館が所蔵する彩釉陶の断片的な碑にも、二人の王女とともに表されている。

彼女は父であるラムセス2世の妃となったが、その時期は定かでない。ビント・アナトやメリトアメンのあとだったかもしれないという。王妃としての地位を示す証拠はすべて自身の墓の中にあるため、いつ王妃になったかを正確に決めることはできず、大王妃の称号は死後に与えられたと考えるほかないとされる。この結婚は名誉上のものだったと考えられている。ビント・アナト、メリトアメン、ヘヌトミレの三人が治世第42年から第56年ごろまで確認されるのに対し、ネベトタウィは記録がひどく乏しく、ラムセス2世の治世の最終段階まで生きなかった可能性がある。

とはいえ、王女妃たちのなかで彼女の地位は軽くなかったらしい。称号には「両国の女主人」「大王妃」「上下エジプトの女主人」「王の娘」「王の身から生まれた愛される王の娘」などがある。祖先への神殿儀礼を描いたトリノのパピルスでは、大王妃ネフェルタリと王妃メリトアメンに次ぎ、王妃ビント・アナトより上に置かれている。名の欠けた一人の王女妃を除けば、ラムセス2世のほかの妃はこの一覧に含まれていない。

墓は王妃の谷のQV60で、ネフェルタリの墓の下手にあり、ほかのラムセス2世の妃たちの墓とは平面が異なる。古代のうちに盗掘を受け、のちにキリスト教の礼拝堂として使われたうえ、浸水の害も受けたが、装飾の多くは残っている。「大王妃」の銘をもつ石灰岩製のカノポス壺の破片など、いくつかの遺物も見つかった。場面のひとつで彼女は、ハゲワシの冠にコブラ飾りを付け、その上に冠台と花々をのせた特別な頭飾りをかぶる。この頭飾りは、ネベトタウィのほか、王妃イセト・タ・ヘムジェルト(QV51)とティティ(QV52)にしか確認されていない。意味は不明である。以前の型はアメンホテプ3世の娘で妃となったシタムンがかぶっていたため、王女妃の立場を示すとも考えられたが、その解釈は狭すぎるとして批判されている。この型の冠はさまざまな女性がかぶっており、ネベトタウィより前の時代にも王女妃だけのものではなかったからである。

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