伝記
モルタは、13世紀のリトアニアで、のちに初代国王となるミンダウガスの妃となった女性である。異教徒としての本名は伝わっておらず、生涯についてわかっていることは少ない。出自を示す手がかりは、1219年にリトアニアの諸公とガリツィア・ヴォルィニ公国が結んだ条約に付された注記にある。そこには、ミンダウガスがブライチャイ家の多くの者を殺し、その一人ヴィスマンタスの妻を自分のものにしたと記されている。イパチー写本によると、ヴィスマンタスは1251年から1253年のあいだにヴィキンタスの城を攻めた際に殺された。城はトヴェライにあったと考えられており、この妻がモルタだったと一般には見られている。リトアニアの歴史家エドヴァルダス・グダヴィチュスは地名を調べて、ブライチャイ家がシャウレイ地方の出である可能性が最も高いとした。
ミンダウガスは1252年ごろ、ヘウムノの司教から洗礼を受けたとされる。翌1253年にリトアニア王として戴冠し、それまで大公妃だったモルタは王妃となった。モルタはミンダウガスの二番目の妻だったらしい。長男ヴァイシュヴィルカスはすでに国際政治で動く成人だったのに、モルタの息子たちはまだ幼く両親に頼っていたからである。モルタの生涯はリヴォニア韻文年代記に短く記され、政治について夫に助言する有能な女性として描かれている。ミンダウガスとの生き生きとした会話もいくつか載っている。年代記によれば、彼女はリトアニアのキリスト教化を支持してトレニオタに反対し、ミンダウガスが異教の信仰に戻ったときにはキリスト教徒をかばった。異教時代の名が伝わらないことと、この姿勢から、リムヴィダス・ペトラウスカスは、モルタが夫より先に洗礼を受けていたのではないかと考えた。結婚の正確な時期は知られていない。
子についての記録は乏しく、何人いたのかもはっきりしない。1261年8月7日付の文書には、レプリスとゲルストゥカスという二人の息子の名が一度だけ出てくる。この文書はミンダウガスがセロニア全域をリヴォニア騎士団に与えたというもので、騎士団による偽造の可能性がある。モルタが王妃だったのは1262年までとされ、没年は1262年とも1263年ともいわれる。亡くなった後、ミンダウガスはモルタの妹、すなわちダウマンタスの妻と結婚した。
これを恨んだダウマンタスはトレニオタと手を組み、1263年にミンダウガスとモルタの息子二人を殺害した。イパチー写本はその二人をルークリスとルペイキスと伝える。1261年の文書の二人と同じで、名が写し間違えられたのか、息子は四人いたのか、歴史家の意見は分かれている。トレニオタが大公の座を奪ったとき、ほかに名乗り出たのはヴァイシェルガとタウトヴィラだけだった。このため、四人いたとすれば1261年に名の出た二人は幼くして亡くなったのだろうとも考えられている。
16世紀のプロイセン年代記は、モルタがスウェーデン出身だったと記す。当時、王座を望む異教の支配者が外国のキリスト教徒の娘を妻に迎えるのはよくあることだったからだという。しかし歴史家はこれを事実とは見ていない。異教のリトアニア人が西方キリスト教の熱心な擁護者であったとはドイツの年代記作者が信じられなかったためだと推測している。シャウレイの人びとは、自分たちの町をモルタの故郷だと呼んでいる。彼女をめぐる謎と、激動の時代の強い女性という姿は、現代の多くの芸術家に着想を与えてきた。
同じ年に亡くなった人物
- カダアン・オグル (1260年)
- マリー・ド・リュジニャン (ウー女伯) (1260年没)
- ゴンサロ・デ・ベルセオ (1260年)
- マリー・ド・ブラバン (1190-1260) (1260年没)
- Hadewijch (1260年(推定))
同じ地域に関係する人物
- アルギルダス・ブラザウスカス (2010年没)
- ユスティナス・マルツィンケヴィチュース (2011年没)
- ヴィータウタス (1430年没)
- Judita Vaiciunaite (2001年没)
- Vytautas Zalakevicius (1996年没)