伝記
ポール・シニャックは、1863年11月11日にパリで生まれたフランスの画家で、ジョルジュ・スーラと並ぶ新印象派の代表的な画家である。裕福な商人の家に生まれ、一家はアニエールに住んでいた。1879年に第4回印象派展を訪れてカイユボットやカサット、ドガ、モネ、ピサロらの作品に目を留め、自分でも絵を描きはじめたとされる。やがて父を亡くした。母は息子を建築家にしたいと願ったが、シニャックは学校を離れて画家の暮らしに身を捧げる決意をし、母もその選択を尊重した。最初は建築を学んだが、18歳のときに絵画に転向したともいわれる。1880年ごろからモンマルトルで描き、エミール・ビンの画室でタンギー爺さんと出会った。同じ年に、ピサロの遠縁にあたるベルト・ロブレスと知り合い、12年後に結婚した。
モネに助言を求め、象徴派の作家たちとも親交を結んだ。1884年には第1回アンデパンダン展に2点の作品を出品し、独立芸術家協会の創設にも加わった。この年、アニエールで『水浴』を発表していたスーラと出会い、スーラやピサロとともに、「科学的」な印象派と呼ばれる集団をつくった。純粋な色の小さな点を並べ、見る人の目の中で混ざって一つの色調に見えるようにするのが点描の技法で、シニャックはこの色彩の分割の実践にすぐ転じた。1885年には光の反射の実験を見にゴブラン工場へ出かけている。1886年には最初の分割主義の作品を描き、ベルト・モリゾの誘いで第8回で最後の印象派展にスーラとともに出品した。この年の展覧会には、スーラの代表作『グランド・ジャット島の日曜日の午後』も出ていた。スーラと比べると、シニャックは構図の組み立てがより自然で直感的で、色もより明るい。翌1887年にはフィンセント・ファン・ゴッホと親しくなり、パリ郊外の川岸で一緒に絵を描いた。
スーラの存命中は、その冷たい色彩の影響から抜け出すのが難しかったが、1891年にスーラが亡くなると、もともと好んでいたモネの暖かい色彩がはっきり現れた。スーラの点描にモネの暖色系を注ぎ込み、筆触もより長く大きくなって、独自の個性を確立した。寡黙で理論家だったスーラとは対照的に話し好きで陽気な性格で、新印象派の熱心な伝道者となり、1899年には理論書『ドラクロワから新印象主義へ』を出版して、新印象派をドラクロワの継承者と位置づけた。1894年には大作『調和の時代』など大きな装飾画にも取り組んだ。ナビ派の画家たちと親しくしながらもその美学には賛同せず、流派を超えた立場を保ち、1908年に独立芸術家協会の会長となった。
海を愛して自らヨットを操ったシニャックは、当時まだひなびた漁村だったサン=トロペに居を構え、海辺や港の風景、ヨットを好んで描いた。若きアンリ・マティスはシニャックを慕って、サン=トロペの別荘に住み込み、強い影響を受けた。気難しいゴッホともいさかいを起こさず、アルルでの共同生活には応じなかったが、ゴーギャンとの衝突の末にゴッホが片耳を切った事件の直後には見舞いに行った。1932年には、日本のプロレタリアートの窮状を世界に訴えるアピールを託された高田博厚に頼られ、ロマン・ロランに相談するよう助言している。政治的には、新印象派の命名者フェリックス・フェネオンとともに無政府主義者だった。1935年、敗血症のためパリで没し、ペール・ラシェーズ墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- アンリ・ピレンヌ (1935年没)
- ヨセフ・スク (作曲家) (1935年没)
- フーゴー・ユンカース (1935年没)
- アストリッド・ド・スエード (1935年没)
- ヨハン・ハルヴォルセン (1935年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ・ドゥリュック (1924年没)
- マルグリット・ジェラール (1837年没)
- ジャン=アンリ・ダングルベール (1691年没)
- ジョフロワ2世 (ブルターニュ公) (1186年没)
- アルセン・カラジョルジェヴィチ (1938年没)