伝記
アマーリエ・エミー・ネーターは、1882年3月23日、ドイツの都市エルランゲンに、ユダヤ系の商人の家系に連なる父マックス・ネーターと母イダ・アマーリア・カオフマンの長女として生まれた。若いころに自分でミドルネームのエミーを名乗るようになり、終生この名を使った。父は代数幾何学を専門とする数学者で、14歳でポリオにかかって麻痺を経験し、片脚に後遺症が残った。エミーは近視で舌足らずな子どもで、秀才で親切とは知られていたが、学業でとくに傑出していたわけではなかった。ただ、友人の後年の話では、子どもの会合で素早く難問を解くなど、早くから論理的な洞察力を持っていたという。当時の多くの少女と同じく料理と掃除、ダンスやピアノを習ったが、ダンスのほかはあまり関心を持たなかった。3人の弟がおり、そのうち次男のフリッツは応用数学者として名を成したが、1941年にソ連に処刑された。
もともと英語とフランス語の教師を志し、1900年にその教員試験を受けて、すべてが「非常に良い」という成績を得た。女子学校で教える資格を得たが、あえてエルランゲン大学で学び続ける道を選んだ。2年前に大学評議会が男女共学を認めれば「学校の秩序が転覆する」と宣言したばかりで、986人の学生のうち2人しかいない女子学生の1人となり、講義には聴講が許されただけで、教授一人ひとりの許可が必要だった。1903年7月にニュルンベルクで卒業試験に受かり、同年冬学期にはゲッチンゲン大学でクラインやヒルベルトらの講義に出席した。1904年10月にエルランゲンへ戻り、改めて入学して数学を専門的に学ぶことを宣言した。1907年にパウル・ゴルダンの指導で博士号を取り、論文の評価は高かったが、本人は後にその論文を酷評している。
当時、女性が大学の職に就くことは難しく、7年間はエルランゲンの数学研究所で無給で教え、父が体調を崩したときにはその講義を代わりに担った。エルンスト・フィッシャーを通じてヒルベルトの手法に触れ、抽象代数学へ進む契機を得た。1915年春、ヒルベルトとフェリックス・クラインに招かれてゲッチンゲン大学へ戻ったが、哲学部の文献学者や歴史家が女性の私講師就任に反対した。ヒルベルトは憤慨して、ここは大学であって公衆浴場ではないと答えたと伝わる。ネーターはゲッチンゲンに発った2週間後に母を突然失い、父の世話のため数週間エルランゲンに戻った。ゲッチンゲンでの最初の一年は無給で、家族が生活費を支え、講義はしばしばヒルベルトの名で告知された。着任して間もなく、保存則が物理系の微分可能な対称性に伴うことを示すネーターの定理を証明して、能力を示した。
1919年に大学教授資格が認められ、私講師の地位を得た。1921年の『環のイデアル論』では、昇鎖条件の簡潔な形を示し、これを満たす対象は彼女にちなんで名づけられた。1928年にモスクワ大学、1930年にフランクフルト大学の客員教授となり、1932年にはチューリッヒの国際数学者会議で全体講演を行った。ゲッチンゲンの学生は「ネーターの少年たち」と呼ばれ、ファン・デル・ヴェルデンは『現代代数学』第2巻にその理論を盛り込んだ。1933年にナチ党がユダヤ人の学術的地位を奪う政策を打ち出すと、大学を解雇され、米国ペンシルベニア州のブリンマー大学で職を得て、女性の院生らを教え、プリンストン高等研究所でも講義した。1935年4月14日、卵巣嚢腫により満53歳で没し、遺灰は同大学の図書館を囲む通路の下に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- エリナー・アボット (1935年没)
- アンナ・キャサリン・グリーン (1935年没)
- チャールズ・デムス (1935年没)
- ラシード・リダー (1935年没)
- ハンス・バルシェック (1935年没)
同じ地域に関係する人物
- Fay Ajzenberg-Selove (2012年没)
- クリフォード・ギアツ (2006年没)
- ジョゼフ・ライディ (1891年没)
- トーマス・S・ゲイツ (1983年没)
- ボーイ・イン・ザ・ボックス (1957年没)