伝記
アンリ・バルビュスは、1873年5月17日、パリ郊外のアニエールに生まれたフランスの作家、ジャーナリスト、平和運動家である。母は英国系で、彼が3歳のときに亡くなった。父アドリアンはガール県のプロテスタントの家の出で、牧師になるためジュネーヴ大学で神学を学んだが、聖職には就かず、小説家、劇作家、ジャーナリストとして活動した。彼はマラルメやベルクソンが教壇に立ったパリ9区の学校に学び、父の影響で文学に親しみ、定型詩を書き始めた。ソルボンヌ大学で文学士号を得て、在学中の1892年、新聞『エコー・ド・パリ』の詩のコンクールに入賞したのを機に、詩人カチュール・マンデスらに認められ、象徴派のグループに加わった。マンデスの尽力で1895年に処女詩集『泣く女たち』を出し、好評を博した。1898年にはマンデスの末娘エリヨンヌと結婚している。
その後はもっぱらジャーナリストとして、多くの新聞や雑誌に演劇評論や短編を寄せた。1903年に最初の小説『哀願する人々』を発表し、1908年にはゴンクール賞候補となった代表作『地獄』を世に出して、作家としての地位を確立した。パリの下宿に住む厭世的な詩人が、壁の穴から病人や老人らの私生活をのぞき見る物語で、自然主義小説、あるいはペシミズムを基調とする暗い小説と評された。ピエール・ロティらに激賞され、アナトール・フランスは「ついに人間の書が書かれた」と評したという。文壇の寵児として華やかに暮らす一方、人間の孤独や苦悩への共感を描こうとし、のちの反戦・平和運動につながる平和主義や社会主義への傾きを深めていった。
1914年に第一次世界大戦が始まると、41歳で肺が弱かったにもかかわらず、動員令の日に即座に志願した。この戦争は軍国主義と帝国主義に対する闘いだと手紙に記している。17か月にわたって兵役に就き、11か月は一兵士、次いで衛生兵として前線で戦ったが、病に倒れて参謀本部の事務や野戦病院に勤務した。その間の体験を妻に書き送り、それをもとに小説『砲火』を執筆した。1916年に新聞に連載された後に刊行されてゴンクール賞を受け、塹壕戦と兵士の生活の悲惨さ、恐怖、不条理をありのままに描いた作品と評され、右派の新聞からは「敗北主義」と批判されながらも、「塹壕のゾラ」と呼ばれた。1917年には退役軍人協会の設立にも加わった。
1919年に小説『クラルテ』を発表し、知識人の国際反戦・平和運動「クラルテ」を結成して、機関誌の編集長を務めた。この運動に参加していた小牧近江は、帰国後の1921年に雑誌『種蒔く人』を創刊し、日本のプロレタリア文学の先駆けとなった。運動は次第に資本主義を批判してボリシェヴィキを支持するようになり、バルビュス自身も1923年に共産党に入党して、機関紙『リュマニテ』の文芸欄編集長を務めた。作家として共産党に入ったのは彼が最初であった。1932年にはロマン・ロランとともに国際反戦会議を招集し、世界29か国から2,196人の知識人が参加した。1935年にはロラン、ジッド、マルローらとファシズムから文化を守る会議を主催し、同年8月30日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・ハルヴォルセン (1935年没)
- 与謝野鉄幹 (1935年没)
- エリナー・アボット (1935年没)
- メレティオス (メタクサキス) (1935年没)
- ルーファス・アイザックス (初代レディング侯爵) (1935年没)
同じ地域に関係する人物
- レフ・オボーリン (1974年没)
- Yodgor Nasriddinova (2006年没)
- ヴァフシティ・バグラティオニ (1757年没)
- ボリス・チェルトック (2011年没)
- セルゲイ・ニコルスキー (2012年没)