HISTORICAL PERSON · 1935年没

ポール・ブールジェ

フランスの批評家・作家。二十歳頃から詩作を始め、1872年に処女詩集を発表した。カトリックの信仰に疑問を抱いて棄教した経験を持つ。

生涯
1935年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(アミアン)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ポール・ブールジェは、1852年9月2日、フランス北部ピカルディ地域圏のアミアンで生まれた批評家・作家である。父ジュスタンは数学者で、仕事の関係で一家は生後まもなくクレルモン=フェランに移り、彼は主にそこで育った。5歳のとき母アンヌを亡くした。パリのコレージュ・サント=バルブで学んだ後、名門のリセ・ルイ=ル=グランに入り、同級生のフェルディナン・ブリュンティエールやアンリ・ベクレルらと知り合った。在学中に哲学を学び、カトリックの信仰に疑問を抱いて1867年に棄教し、無神論者になった。卒業後は高等研究実習院に通い、1871年にはパリ・コミューンを目撃している。ハイネやバイロン、バルザック、ユゴーに強く感化されて詩人を志し、二十歳ごろから詩作を始め、1872年に最初の詩集を出した。バンヴィルやマラルメ、ヴェルレーヌら高踏派の文人たちと交わったが、詩集は当時の世には認められなかった。

やがて詩人から批評家へ転じ、イポリット・テーヌの影響を受けて実証的な思考を培い、人間を科学的に心理分析した。月刊誌『両世界評論』などで記者を務め、演劇評論家としても活躍した。ボードレールやルナン、スタンダール、フローベールらを研究し、1883年ごろから心理学的な視点で作家を論じる記事を数多く寄せた。それをまとめた大作『現代心理論集』で大きな反響を呼び、とくにスタンダールの再評価につながった。1884年に中編小説を発表し、1885年に実験心理を用いた長編、1886年に不倫を題材にした小説、1887年に心理小説『嘘』などを次々に出した。作風は内的独白を伴うことが多く、貴族や上流階級の病理的な心理分析に定評があった。彼の詩は再評価され、ドビュッシーによって曲が付けられた。

1890年にミニー・ダヴィッドと結婚した。妻はイタリア語が分かり、ブールジェの親友でイタリアの作家マティルデ・セラオの著作をフランス語に訳している。この前後にはイギリスやアイルランド、ドイツ、スイス、ギリシャ、スペイン、モロッコ、パレスチナなどを旅した。イギリスではウォルター・ペイターらと交流し、アイルランドではイェイツと知り合った。米国には一年近く滞在し、1893年にニューポートでイーディス・ウォートンと出会って生涯の友となり、ウォートンは彼の著作を英訳して紹介した。帰国後には2巻の批評書を刊行した。イタリアでは、とりわけシエーナに魅せられた。ヴェネツィアでは美術史家ベレンソンや画家サージェントと交わり、ローマには半年近く滞在して、教皇レオ13世からも招かれた。

19世紀後半の退廃をローマ帝国の衰退になぞらえるようになり、1889年の長編『弟子』で、近代科学的決定論や実証主義を痛烈に批判して倫理や道徳を唱えた。論争を呼んで売れ行きも好調で、これにより、かつて心酔したテーヌの実証主義と完全に決別した。ゾラら自然主義者とは激しく対立した。1894年5月31日、マクシム・デュ・カンの後任として、アカデミー・フランセーズ会員に選ばれた。ドレフュス事件では反ドレフュス派の急先鋒で、右派組織に加わり、王党派のアクション・フランセーズの熱狂的な支持者にもなった。1901年にカトリックに帰依し、1902年や1904年の小説で社会的責任を主張した。1914年にはフィガロ紙の編集室で友人ガストン・カルメットが銃撃された事件を目撃している。ノーベル文学賞に何度か推薦され、レジオンドヌール勲章は最終的にグランクロワまで進んだ。妻は1932年に没し、本人は1935年12月25日にパリで世を去った。

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