伝記
アーサー・ヘンダーソンは、1863年9月13日、スコットランドのグラスゴーで、織物職人デイヴィッド・ヘンダーソンと家事使用人だった母アグネスの息子として生まれた。10歳のときに父が亡くなり、一家はイングランド北東部のニューカッスル・アポン・タインに移り、母はのちにロバート・ヒースと再婚した。12歳から機関車の工場で働き、17歳で見習い期間を終えるとサウサンプトンに1年間赴任した。ニューカッスルに戻ってからは鉄型職人として働いた。1879年に会衆派教会からメソジストに改宗し、地元の説教者となった。1884年に職を失ってからは、勉強と説教に没頭した。
1892年、鉄工業者組合の有給の組織者に選ばれ、労働組合政治の複雑な世界に入った。北東調停委員会の代表にもなった。ストライキには益よりも害が多いと信じ、できる限り避けようとしたため、ストライキが増えると考えて労働組合連盟の設立に反対した。1893年には自由党所属でニューカッスル市議会の議員となった。1900年に、129人の労働組合と社会主義の代表の一人として、ケア・ハーディの提案による労働者代表委員会の結成に参加した。1903年にその会計係に選ばれ、同じ年のバーナード・キャッスルの補欠選挙で下院議員に当選した。1903年から翌年まではダーリントンの市長も務めた。1906年に労働者代表委員会が労働党と改称し、29議席を得た。1908年にハーディが党首を降りると後任の党首となり、1910年に自ら辞任した。
1914年に第一次世界大戦が始まり、ラムゼイ・マクドナルドが抗議して党首を辞すると、ヘンダーソンが再び党首に選ばれた。以後、二人は敵対したという。1915年、アスキス首相が連立政権の樹立を決めると、労働党出身で初めての閣僚、教育院総裁となった。1916年にロイド・ジョージがアスキスに代わって首相になると、縮小された戦時内閣に無任所大臣として留まった。1917年8月、戦争に関する国際会議を開く提案が閣議で否決されたため辞職し、直後に党首からも降りた。その後、労働党を全国的に支持基盤のある政党に育てることに力を注ぎ、1918年にマクドナルドやシドニー・ウェッブと全国の選挙区組織の網を築き、「労働党と新しい社会秩序」と題する綱領の採択も取り付けた。この綱領は1950年まで党の基本方針となった。
1918年12月のクーポン選挙で落選したが、翌年ウィドネスの補欠選挙で復帰した。1923年にも議席を失ったが、2か月後にバーンリーの補欠選挙で復活し、マクドナルドによる初の労働党政権では内務大臣となった。この政権は1924年に敗れた。ヘンダーソンは当選を果たしたが、請われても、マクドナルドの後任になることは拒んだ。1929年にマクドナルドから外務大臣に指名され、ソビエト連邦との関係を再構築し、国際連盟にも全面的に協力した。しかし世界恐慌で政府は危機に陥り、1931年、予算の深刻な赤字が発覚した。雇用保険の削減に閣僚の約半数が反対していることを知ったヘンダーソンは辞任した。8月24日にマクドナルドが挙国一致政府の樹立を宣言したが、ヘンダーソンを党首とする労働党は拒否した。総選挙で労働党は46議席に留まり、ヘンダーソンも議席を失い、翌年に党首を辞任した。
その後クレー・クロスの補欠選挙で国政に復帰し、戦争を止めることに残りの人生を捧げた。世界軍縮会議を主催し、1934年にノーベル平和賞を受賞した。1935年10月20日、72歳で死去した。息子のうち2人も労働党の政治家となった。
同じ年に亡くなった人物
- スタンリイ・G・ワインボウム (1935年没)
- プロスペ・プレ (1935年没)
- ルーファス・アイザックス (初代レディング侯爵) (1935年没)
- ジョン・ハートリー (1935年没)
- ミカエル・ピューピン (1935年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・タブマン (1971年没)
- ベイジル・ディアデン (1971年没)
- エリナー・ヒバート (1993年没)
- ウィリアム・ロバート・ロバートソン (1933年没)
- チャールズ・ロスチャイルド (1923年没)