HISTORICAL PERSON · 1935年没

カジミール・マレーヴィチ

ウクライナ・ソ連の画家。抽象絵画を手がけた最初の人物とされ、無対象を追求するシュプレマティスムに到達した。ロシア・アヴァンギャルドの一翼を担った。

生涯
1935年没
死亡地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出生地
ウクライナ(キーウ)
出典
世界地図
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)

伝記

カジミール・セヴェリーノヴィチ・マレーヴィチは、1879年2月23日(ユリウス暦では2月11日)、ロシア帝国領ウクライナのキエフ近郊に生まれた画家である。ただし生まれた日は、2月23日とも26日ともいわれる。両親のセヴェリンとリュドヴィガはポーランド人で、1863年の一月蜂起が失敗に終わった後にポーランドを逃れた。伯父のルツィアン・マレヴィチはカトリックの司祭で、蜂起の指導者の一人だった。一家はキエフ近郊に落ち着き、カジミールは14人きょうだいの第一子で、成人したのは9人だった。家庭で主に使われた言葉はポーランド語だったが、ロシア語も話し、周囲の環境からウクライナ語も身につけた。そのため、ウクライナ語で話し、ポーランド語で書き、後に習得したロシア語で活動するという言語的な分裂が生まれたともいわれる。

父は製糖工場の管理者として各地を渡り歩き、1889年から1896年にかけて一家は何度か転居した。1889年にハルキウ近郊のパルホモフカへ移り、ここで2年制の農業学校に通い、周囲の農村の風景に学んで素朴な農民風の絵を独学で描いた。のちにコノトプ近郊に移り、作曲家ニコライ・ロスラヴェツと出会った。キエフの絵画学校の授業にも短期間出席している。1896年に一家はクルスクに移り、画家たちと知り合って屋外制作を重ねた。マレーヴィチ自身が認めるとおり、絵画への情熱は一家の「厄介者」となる原因だった。複製画を通じて印象派や象徴主義、フォーヴィスム、キュビスムなどを吸収していった。

1910年ごろには、ピカソらのキュビスムや未来派の強い影響を受け、色彩を多用してプリミティブな要素を持つ「立体未来派」の作品を制作していた。1910年代初めにはミハイル・ラリオーノフやナタリヤ・ゴンチャロワらロシア・アヴァンギャルドの画家とともに展覧会に出品した。1915年、立体未来派の様式で制作するうちに、無対象を主義とする「シュプレマティスム(絶対主義)」に到達した。黒い正方形を描いた『黒の正方形』はペトログラードの「最後の未来派展0,10」で初めて展示され、具象絵画との決定的な決別を示した。彼が追求したのは精神と空間の絶対的な自由であり、理論を『キュビスムと未来派からシュプレマティスムへ』という小冊子にまとめた。白く塗ったカンバスの上に傾けた白い正方形を描いた『白の上の白』など、意味を徹底的に排した作品は、戦前の抽象絵画の到達点の一つとされ、ロシア構成主義にも大きな影響を与えた。

1917年の十月革命の動乱を背景に、1918年にはマルク・シャガールとともにヴィテブスクで教え始め、1919年には芸術家集団ウノヴィスを結成した。1920年代には巨大建造物を思わせる『シュプレマティスム・アーキテクトン』シリーズを設計・構成した。1927年にワルシャワとベルリンで個展を開いたが、これが生涯で唯一の国外滞在だったとされる。やがてスターリン政権下で美術に対する考え方の保守化が進み、前衛芸術運動は否定されて芸術家は弾圧された。多くの同志が「生産主義」に走る中、マレーヴィチは彼らと袂を分かち、写実的な具象絵画に戻って1935年5月15日に生涯を終えた。白紙という究極の抽象に達した彼には、具象への回帰以外に芸術を続ける道がなかったとの評価がある。後世には、エル・リシツキーやロドチェンコ、のちのミニマリズムの作家にまで影響が及んだ。

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