伝記
サロメ・アレクサンドラは、古代イスラエルを支配したハスモン朝の女王である。在位は紀元前76年から紀元前67年までで、生年は紀元前139年とも紀元前141年ともいわれる。ヘブライ語名はシェラムツィオンで、アレクサンドラというギリシア語名はアレクサンドロス・ヤンナイオスとの結婚の際に得たものとみられている。ユダヤの歴史的伝承で国を治めた女性は三人だけとされ、彼女はその一人である。独立王国の主権者として死んだユダヤ最後の統治者でもあった。
出自については、フラウィウス・ヨセフスは両親のことを何も記していない。ヨセフスが彼女を、嫁いできたとは述べずに正統なハスモン家の君主として扱っていることから、彼女自身がハスモン家の血を引いていたとする説がある。一方、ラビ文献はラビのシモン・ベン・シェタハを彼女の兄弟としており、ハスモン家の出ではないとする説もある。最初はアリストブロス1世と結婚していたが、夫が紀元前103年に統治わずか1年で死ぬと、投獄されていた夫の兄弟ヤンナイオスを釈放して結婚し、統治者に据えたと伝えられる。ただし、アリストブロス1世の妻だったというのは取り違えである可能性が高いともいわれる。ヤンナイオスとの間には、兄のヨハネ・ヒルカノス2世と弟のアリストブロス2世の二人の息子が生まれた。ヤンナイオスはラガバの要塞を包囲している最中に重病となり、アレクサンドラに、自分の死を要塞が落ちるまで軍に隠すよう命じたという。エルサレムへ戻った彼女には、ファリサイ派に権力の一部を譲り、民衆に人気のある彼らの支持を得るよう助言したとも伝えられる。この場面の史実性には異論もある。
紀元前76年にヤンナイオスが死ぬと、気弱だったとされる長男ヒルカノス2世を大祭司とし、自らは女王として統治した。夫の遺言に従って、弾圧されていたファリサイ派と和解し、かつてヒルカノスが廃したファリサイ派の規定も復活させたと伝えられる。エジプトに亡命していたシモン・ベン・シェタハを呼び戻してサンヘドリンの議長に任じ、ファリサイ派の権勢はいっそう高まった。ハスモン朝を敵視していた勢力との和解は国内にひとまず安定をもたらし、彼女の九年間の治世は、ハスモン朝の「黄金時代」と評されることもある。
その一方で、息子たちの権力争いや重税に対する民衆の不満は募っていた。豊作に恵まれて彼女自身は富裕に暮らし、穀物の3分の1や果樹園・ブドウ畑の収穫の半分を受け取る権利をもっていたとされ、塩税などの間接税は民衆の苦痛だったと思われる。ファリサイ派はヤンナイオスの時代に自分たちを弾圧した人々に報復し、ディオゲネスらを殺害した。反ファリサイ派はアリストブロス2世を先頭に反発し、ヒュルカニア、アレクサンドレイオン、マカイロスを除く要塞の守備を任された。紀元前69年ごろ、アルメニア王ティグラネス2世がシリアのセレウコス朝支配を目指して進軍してくると、使者を送って友好関係を確認し、ティグラネスがローマとの戦いのため帰国したので事なきを得た。
彼女が重病になると、アリストブロス2世はアガバへ脱出して有力者の庇護下に入り、ファリサイ派の専横を嫌って挙兵した。合流者が続々と現れ、エルサレムの長老団やヒルカノス2世は狼狽して彼女の決断を求めたが、彼女は、得策と考える手段をとればよい、自分は体力も尽きて国事に気持ちを向けることさえできない、と答えたという。間もなく72歳で死去。死後は息子たちが王位をめぐって争い、その争いはハスモン朝の独立の喪失と、ポンペイウス率いるローマ軍の到来につながり、ハスモン朝の時代は終わった。
同じ年に亡くなった人物
- Cornelia (紀元前67)
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