伝記
カール・クラウスは、1874年4月28日、ボヘミアのイーチン(ドイツ語名ギッチン)に生まれたオーストリアの作家・ジャーナリストである。ユダヤ人で、世紀末ウィーン文化を代表する人物とされる。裕福な製紙業者ヤーコプ・クラウスと妻エルネスティーネの子で、一家は1877年にウィーンへ移り、母は1891年に亡くなった。
1892年にウィーン大学の法学部に入り、同じ年の4月から新聞への寄稿を始めた。最初の仕事はハウプトマンの『織匠』への批評だった。このころ小さな劇場で俳優を志したが、うまくいかなかった。1894年に専攻を哲学とドイツ文学に変え、1896年には学位を取らずに大学を去って、俳優や演出家、朗読者として働き始める。ペーター・アルテンベルクとの友情が始まったのもこのころで、シュニッツラーやホフマンスタールらの若きウィーン派にも加わった。しかし1897年に、風刺文『崩壊する文学』でこの集団と決別し、ブレスラウ新聞のウィーン通信員に任じられた。翌1898年には、ユダヤ人の同化を強く主張する立場から、近代シオニズムの創始者ヘルツルを論駁する『シオンの冠』を書いて攻撃した。
1899年4月1日にユダヤ教を捨て、同じ年に闘争的な評論雑誌『炬火』(「火」とも訳される)を創刊した。偽善や精神分析、ハプスブルク帝国の腐敗、汎ドイツ主義の民族主義などを標的にした雑誌で、1912年以降はクラウスの個人誌となり、権力や社会、文化への辛辣な批判と笑いで、当時のウィーンに大きな衝撃を与えた。創刊当初の寄稿者には、アルテンベルク、ココシュカ、ロース、シェーンベルク、ストリンドベリ、トラークルらがいた。1901年には発行人が留守中に雑誌を乗っ取ろうとしたため、訴訟を起こして勝った。批判された人々から訴えられることも多かった。1902年の『風俗と犯罪』では、性道徳を刑事司法で守るべきだとする当時の通念を攻撃した。1906年からは警句を『炬火』に載せ、それらは1909年の詩集『格言と反論』にまとめられた。
また、執筆と並行して公開朗読会を開き、その回数は1892年から1936年のあいだに約700回に及んだ。ブレヒトやハウプトマン、ネストロイ、ゲーテ、シェイクスピアの作品を読み、オッフェンバックのオペレッタはピアノの伴奏で全役を一人で歌ったという。のちにカネッティは、足しげく通ったこの朗読会を、自伝第二巻の題に取り入れている。人気の絶頂期には、朗読会に4,000人が集まり、雑誌は4万部売れた。
1922年には、第一次世界大戦を当時の資料に基づいてドキュメンタリー風に再現した、全5幕の戯曲『人類最後の日々』を刊行した。これは現代政治劇・寓話劇の先駆とされる。長大なため完全な形で上演されたことはない。1933年にはナチスを批判する『第三のワルプルギスの夜』を完成させたが、生前はごく一部の発表にとどまり、出版は死後の1952年となった。
1936年2月、自転車にはねられたのがもとで体調を崩し、通算700回目の朗読会を開いたあと、心臓発作と脳障害により6月12日にウィーンで亡くなった。ウィーン中央墓地に埋葬された。『炬火』は、事故の直前に出た922号が最終号となった。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・ミッチェル (1936年没)
- アレクサンドロス・パパナスタシオウ (1936年没)
- ハンス・バイムラー (1936年没)
- カール・シュトゥンプ (1936年没)
- ジャン・ジャコビー (1936年没)
同じ地域に関係する人物
- カルロ・サルヴァトーレ・ダズブルゴ=トスカーナ (1892年没)
- ジーモン・ゼヒター (1867年没)
- ヨハン・パリサ (1925年没)
- エルンスト・アーダルベルト・フォン・ハラハ (1667年没)
- エバ・パブリック (1983年没)