伝記
マクシム・ゴーリキーは、1868年3月28日(ユリウス暦3月16日)、ニジニ・ノヴゴロドに家具職人の子として生まれたロシアの小説家・劇作家である。本名はアレクセイ・マクシーモヴィチ・ペシコフといい、筆名のゴーリキーはロシア語で「苦い」を意味する。母ワルワラを肺結核で亡くして10歳で孤児となり、話の上手な祖母に育てられたが、祖母の死は彼を深く動揺させた。1887年に自殺未遂事件を起こし、その後は職を転々としながらロシア国内の各地を放浪した。極貧の暮らしの中で革命運動に接近していった。
のちに地方新聞の記者となり、1892年にトビリシで『カフカス』紙に最初の短編『マカル・チュドラ』が載った際、初めて筆名としてゴーリキーを名乗った。1895年には『チェルカシュ』を雑誌『ロシアの富』に発表し、1898年にサンクトペテルブルクで短編集『記録と物語』を刊行して、一躍人気作家となった。1899年には散文詩『26と1』と最初の長編『フォマ・ゴルデーエフ』を発表し、その名声はたちまちチェーホフやトルストイと比べられるまでになった。1902年に代表作の戯曲『どん底』を発表し、同年モスクワでスタニスラフスキーの演出で上演され、翌1903年にはベルリンでも上演された。同じ1902年に科学アカデミーの名誉会員に選ばれたが、急進的な政治的信条を理由に皇帝ニコライ2世に取り消され、抗議としてチェーホフとコロレンコがアカデミーを辞した。
1905年にボリシェヴィキの組織に入り、レーニンの知遇を得た。1905年から1907年の革命には巨額の援助をしたとされ、第一次世界大戦中は、ペトログラードの彼のアパートがボリシェヴィキの事務室になった。しかし、1917年に十月革命が起こると考えを一変させ、2週間後の手紙で、レーニンもトロツキーも自由と人権について何の考えも持たず、すでに権力の毒に冒されていると批判した。1917年から1918年にかけては新聞紙上で革命中の残虐行為とレーニンらを批判している。1921年に結核の療養のためイタリアのソレントへ移ったが、暮らしは貧しくみじめだったという。1928年以降はたびたびソ連を訪れ、1932年にスターリンの個人的な求めに応じて帰国した。ソルジェニーツィンは、帰国の背景にイタリアでの暮らしの困難があったとみる。
帰国後はレーニン勲章を受け、モスクワの邸宅と郊外の別荘を贈られた。生地ニジニ・ノヴゴロドもゴーリキー市と改称された(1990年まで)。ソビエト作家同盟を設立して議長となり、白海・バルト海運河の工事を視察して、1934年に運河の建設史の編纂にも加わった。この書で運河工事を全面的に称賛したことや、収容所での再教育を肯定する発言は、ソ連崩壊後には厳しく批判され、ソルジェニーツィンは彼を「処刑人の弁護人」と非難した。一方、クニゲは、決してスターリン主義者ではなかったと主張している。
1934年12月にキーロフが死んでスターリンによる粛清が始まると、ゴーリキーはモスクワ近郊の自宅に軟禁されるようになったという。1935年に息子マクシム・ペシコフを亡くし、翌1936年6月18日、モスクワ郊外の別荘で病気静養中に没した。6月20日に赤の広場で国葬が行われ、遺骨はクレムリンの壁墓所に葬られた。死因については長らく憶測が飛び交い、1938年のモスクワ裁判では、ゴーリキーが殺害されたことが訴因の一つとなり、被告の医師が毒殺を認めた。1988年、ソ連の最高裁判所は証拠不十分を理由に、関係者への判決を破棄している。
同じ年に亡くなった人物
- フェルディナンド・カルシュ (1936年没)
- ブラス・インファンテ (1936年没)
- フリードリヒ・フォン・エスターライヒ=テシェン (1936年没)
- フアード1世 (エジプト王) (1936年没)
- イヴァン・スミルノフ (1936年没)
同じ地域に関係する人物
- ミハイル・ボローニン (2004年没)
- エフゲニー・グリシン (2005年没)
- Vsevolod Kochetov (1973年没)
- ラドネジのセルギイ (1392年没)
- ゲナジ・サラファノフ (2005年没)