伝記
グリゴリー・エフセーエヴィチ・ジノヴィエフは、1883年9月23日(ユリウス暦9月11日)に、ロシア帝国領ウクライナのヘルソン県エリサヴェドグラート(現在のキロヴォフラード)でユダヤ人の家庭に生まれた、ロシアの革命家でありソビエト連邦の政治家である。本名はオフセル・ゲルション・アロノフ=ラドムイスリスキーといい、母の旧姓を用いたヒルシュ・アプフェルバウムの名でも知られた。父は乳牛を飼育する農場主であった。少年時代から革命運動に参加し、長じてロシア社会民主労働党に入党した。1902年にスイスのベルンへ亡命し、パリでも活動して出入国を繰り返し、この間ベルン大学の化学部と法学部に学んだ。1903年のボリシェヴィキ創設時からの一員で、ウラジーミル・レーニンの最も親密な同志の一人として「レーニンの副官」と呼ばれた。
1906年に党のサンクトペテルブルク委員会の委員となり、新聞の編集部員や労働組合の活動で活躍した。党中央委員に選ばれたが、1908年に逮捕され、病気を理由に釈放されて亡命した。第一次世界大戦中はスイスに住み、レーニンとは家族ぐるみの親しい交際を持った。1917年4月、レーニンと共に「封印列車」でロシアに帰国した。7月のペトログラードの武装蜂起には反対したが、陰謀の容疑で告発され、レーニンと共に地下に潜伏した。10月10日と16日の党中央委員会では、レフ・カーメネフとともに即時武装蜂起を主張するレーニンに反対し、新聞で蜂起計画を暴露した。このため十月革命で果たした役割は比較的小さいとされるが、広範な社会主義政党を網羅した全社会主義政府の樹立を主張し、一部の人民委員の賛同を得るなど、政権内での影響力は侮りがたいものがあった。レーニンは激怒して党除名を要求したが、ジノヴィエフは忠誠を誓い、ペトログラード・ソビエト議長に就任した。1919年にはコミンテルン執行委員会議長に選ばれ、同年党政治局員となった。
レーニンの晩年から、政治局でスターリン、カーメネフと三人組を組み、トロツキーと対立して、その失脚と国外追放に関与した。1924年にレーニンが死ぬと党の最高実力者の一人となったが、スターリンへの権力集中に危惧を覚え、1925年にレニングラードの党組織を中核とする「新しい反対派」を組織した。第14回党大会ではスターリンの一国社会主義論に反対し、トロツキー派と「合同反対派」を結成したが、すぐ切り崩され、1926年に政治局員とコミンテルン議長を解任されて党を除名された。1927年に自己批判し、1928年に流刑となったが、のちに復党した。1932年に再び除名されカルーガに追放され、1933年に復権すると、1934年の党大会ではスターリンを指導者として讃えた。
しかし1934年12月にキーロフが暗殺されると、事件に連座したとして党を除名され逮捕された。1935年に禁固10年の判決を受け、1936年の第一回モスクワ裁判では、党指導部へのテロを計画したという「合同本部」事件で告発された。拷問を受け、スターリンに生命の保証を約束されて有罪を認めたが、8月24日にカーメネフら15人と共に死刑判決を受け、翌25日に処刑された。52歳だった。妻子も逮捕され、息子のステファンは1937年に銃殺された。処刑から52年後の1988年、ペレストロイカに伴う歴史の見直しの中で名誉回復された。歴史家E・H・カーは、彼がレーニンへの個人崇拝を確立し、「トロツキズム」という言葉を、捏造したか、少なくともソ連の指導者として最初に公の場で使ったと指摘した。
同じ年に亡くなった人物
- コストラーニ・デジェー (1936年没)
- ヘレーネ・ツー・メクレンブルク (1857-1936) (1936年没)
- スワミ・スリ・ユクテスワ・ギリ (1936年没)
- アドルフ2世 (シャウムブルク=リッペ侯) (1936年没)
- クララ・バット (1936年没)
同じ地域に関係する人物
- セルゲイ・アレクサンドロヴィチ (1905年没)
- リュボーフィ・オルローヴァ (1975年没)
- ヤン・ベルジン (1938年没)
- ウラジミール・オシポビッチ・ボゴモロフ (2003年没)
- アドリフ・ヨッフェ (1927年没)