伝記
ホセ・ブエナヴェントゥラ・ドゥルティ・ドゥマンヘは、1896年7月14日に生まれ、1936年11月20日に没したスペインの革命家である。アナルコ・サンディカリスムを支持し、全国労働者連合(CNT)とイベリア・アナーキスト連盟(FAI)の主要な一員として、スペイン内戦の前と最中に活動した。アナキスト運動の英雄として記憶されている。
母アナスタシア・ドゥマンヘと父サンティアゴ・ドゥルティの間に、レオンのサンタ・アナ地区で生まれた。8人きょうだいの次男であった。5歳で小学校に入ったが、6歳だった1903年に、なめし革工のストライキで父が逮捕されるのを目の当たりにした。叔父が率いたこのストライキは9か月続いた末に雇用者側に敗れ、一家は支援したために排斥されるなどして、困窮した。それでも両親は子どもたちに教育を受けさせようと努めた。祖父は彼がバリャドリード大学に進むことを望んだが、14歳で学校を退き、レオンの操車場で見習いの機械工になった。
見習いの師は、社会労働党の地元の指導者でもあった。彼はこの時期に教会へ通わなくなり、レオンのカトリックの人々から悪評を受けた。1913年4月には労働総同盟(UGT)の金属労働組合に入って、地元の組合の有力な組織者となったが、まもなく社会党の指導部に失望し、選挙政治を退けて革命的社会主義を選んだ。1917年8月、UGTが呼びかけたストライキに積極的に参加した。政府は組合員と雇用者の合意を無視して、暴動を鎮圧するために軍を動員し、70人が殺害され、500人以上の労働者が負傷した。また、2000人のストライキ参加者が、裁判や法的な手続きを経ずに投獄された。スペイン国家のこうした残虐さは、若きドゥルティに甚大で永続的な影響を及ぼした。彼は暴動からかろうじて免れたが、フランスへの亡命を余儀なくされ、そこで亡命してきた無政府主義者たちと出会い、1917年の秋から1920年のはじめまでパリで機械工として働いた。
その後スペインに戻り、サン・セバスティアンで無政府主義者たちに紹介されて、のちに戦闘組織を結成した。1921年、クルサール会議場の落成式の際に、組織の何人かが国王アルフォンソ13世の暗殺を試みたが、失敗に終わった。CNTの当時の総裁に説得され、バルセロナの労働者を組織するために同地へ行き、アナキスト団体「連帯」を結成した。1923年にはその組織が、アナルコ・サンディカリストの活動家の殺害の報復として、枢機卿の暗殺に関与した。同年にミゲル・プリモ・デ・リベラが権力を握ると、国境近くの兵舎の襲撃を試みたが、失敗してアナキストが多数殺された。その後、仲間とラテンアメリカに逃れ、キューバを訪れ、チリとアルゼンチンで銀行強盗を行った。バルセロナに戻ってからは、影響力のある闘士の組織となった。
1936年7月に内戦が始まると、バルセロナで軍の蜂起を打ち破る中心人物の一人となり、のちに「ドゥルティ隊」を組織して率い、アラゴン戦線で戦った。11月、マドリードが包囲されると、防衛を助けるために部隊を率いて首都に入り、19日にカサ・デ・カンポ公園での戦闘で撃たれて致命傷を負った。死の状況については、敵の銃火、味方の誤射、裏切りのいずれかをめぐり、歴史家の間で議論がある。バルセロナでの葬列には、数十万人の人々が集まったという。
同じ年に亡くなった人物
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- レオナルド・トーレス・ケベード (1936年没)
- ウィリアム・アダムソン (1936年没)
- アレクサンドル・タマニアン (1936年没)
- イヴァン・スミルノフ (1936年没)
同じ地域に関係する人物
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