伝記
サンボル2世は、十三世紀にポモジェ東部のトチェフ公を務めた人物である。一二一一年か翌年に、ポモジェ公ムシチュイ1世の子として生まれた。母はズヴィニスワヴァといい、夫妻には九人の子がおり、そのうち四人が男子で、シフィエントペウク、ヴァルチスワフ、サンボル、ラチボルといった。父の死後は長兄のシフィエントペウクが跡を継ぎ、サンボルはおよそ十二年間、この兄の庇護のもとで過ごした。その後、一二三〇年ごろに小さなルビシェヴォ公国を分け与えられ、同じころ、メクレンブルク公ハインリヒ・ボルヴィン2世の娘メヒティルドと結婚した。一二三四年には兄とともにプルーセン人を破っている。
まもなくサンボルはドイツ騎士団と結んだ。一二三六年に兄にポモジェを追われ、騎士団の領地に逃れた。一二三七年に弟ラチボルをけしかけてシフィエントペウクを攻めさせたが、勝ったのは兄で、ラチボルは捕らえられた。一二四二年から一二五三年まで、シフィエントペウクと、騎士団やクヤヴィ・マゾフシェの公たち、ヴィエルコポルスカの公たちの連合軍との長い戦争が続き、サンボルとラチボルは連合軍の側に立った。一二四九年の初めにサンボルは公国へ戻ったが、翌年に戦争が再開して、三度目の逃亡を強いられた。一二五二年には騎士団の軍に守られながらトチェフに砦を築き始め、一二五三年に騎士団とシフィエントペウクの戦争が終わると、公国を完全に取り戻した。
サンボルはトチェフを新たな都とし、領国の発展に力を注いだ。メクレンブルクの宮廷から来たドイツ人の助言者を身近に置き、ドイツ人の騎士や市民を宮廷に招いた。トチェフにリューベック法を与え、リューベックなどからドイツ人の市民を呼び寄せ、エルブロンクやヘウムノにも特権を認めて、経済の発展を促した。一人息子のスビスワフが亡くなると、その死を悼んで、のちにペルプリンに移されたシトー会の修道院を一二五八年に創建し、メクレンブルクから修道士を呼んだ。ただしその費用のためにオリヴァ修道院の所領を没収し、一二六二年に教皇ウルバヌス4世が返還を求めたが聞き入れなかった。一二六六年三月にも教会へ土地を返す盟約を破り、破門され、一二六七年の初めにはクヤヴィ司教によって領国全体に聖務停止が命じられた。
シフィエントペウクの死後、その子ムシチュイ2世がポモジェ東部の全体を戦いで統一したため、サンボルは国を失った。彼はクヤヴィにいた娘サロメアとその夫であるイノヴロツワフ公ジェモミスウのもとに身を寄せたが、一二七一年にヴィエルコポルスカ公ボレスワフの侵攻で捕らえられ、牢に入れられた。釈放されると、ドイツ騎士団のもとに逃れ、一二七六年にグニェフの地を騎士団に与えた。騎士団に領国の回復を助けてもらうことはできず、ジェモミスウが公位を取り戻したのでクヤヴィに戻った。死の少し前に、公国を娘たちに遺すと遺言し、一二七七年か一二七八年に亡くなった。
サンボルの死後も、遺領をめぐる争いは続いた。甥のムシチュイ2世や娘婿のジェモミスウが相続を主張したが、一二八一年に騎士団はムシチュイ2世を訴え、サンボルとラチボルの寄進を認めさせようとした。結局、騎士団はグニェフを手に入れ、この遺産によってヴィスワ川左岸に確固たる勢力を築いた。なお、娘のマウゴジャータは、一二四八年にデンマーク王クリストファ1世と結婚している。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・アビー・ウサイビア (1270年)
- マルガレータ・フォン・シュタウフェン (1270年没)
- コンラト1世 (グウォグフ公) (1270年代没)
- ジャン・トリスタン (ヴァロワ伯) (1270年没)
- ナフマニデス (1270年没)
同じ地域に関係する人物
- スタニスワフ・プシビシェフスキ (1927年没)
- バルトロメウス・ストロベル (1647年没)
- エルジュビェタ・ザヴァツカ (2009年没)
- リヒャルト・ヒルデブラント (1952年没)
- イエジ・ポピエウシュコ (1984年没)