伝記
後嵯峨天皇は、日本の第88代天皇である。諱は邦仁といい、1220年4月1日(承久2年2月26日)に、土御門天皇の皇子として生まれた。母は源通宗の娘の通子である。承久の乱の前年の生まれで、土御門上皇が土佐に流された後は、母方の大叔父にあたる中院通方と土御門定通のもとで育てられた。しかし土御門家一門が没落すると苦しい生活を送り、20歳を過ぎても出家も元服もできない中途半端な状態に置かれていたという。
1242年(仁治3年)、四条天皇が12歳で崩御し、皇位継承の問題が持ち上がった。公卿や幕府の思惑が絡み、問題は難航した。九条道家ら有力な公卿は、順徳上皇の皇子で仲恭天皇の異母弟にあたる忠成王を立てようとした。しかし執権の北条泰時と六波羅探題の北条重時は、承久の乱に関わった順徳上皇の皇子の擁立に反対し、中立的な立場にあった土御門上皇の皇子の邦仁王を、鶴岡八幡宮の御託宣があったとして擁立した。これを仁治三年の政変という。定通の側室が重時の同母妹の竹殿だったため、邦仁王と北条氏は縁戚でもあったという。このやり取りのために11日間の空位が生じ、当時の公家の日記『平戸記』と『民経記』は、いずれも邦仁王の擁立を非難する記述を残している。道家の義父である西園寺公経は、すぐに縁戚の四条隆親の邸宅に邦仁王を迎え、1月20日に践祚させた。3月18日の即位式の後、25日には関白を近衛兼経から二条良実に替えさせた。
即位した天皇は、宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結んで立場の安定をはかった。中宮は西園寺実氏の長女の姞子(大宮院)で、のちの後深草天皇と亀山天皇の母である。1246年(寛元4年)、在位4年で皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位して院政を始めた。この年、対立していた九条道家が失脚したことも手伝って、朝廷の政務は上皇の主導で行われるようになった。以後、姉小路顕朝や中御門経任ら実務を担う中級の貴族を側近に登用して院政を進めた。1247年の宝治合戦の直後には、北条時頼以下の幕府要人が、院政に全面的に協力する合意をしている。摂家将軍に代えて、天皇の皇子の宗尊親王を鎌倉幕府の将軍とする宮将軍にも合意し、後嵯峨院政と幕府の連携により、政治の安定がはかられた。ただし、後嵯峨上皇の時代は鎌倉幕府が朝廷の掌握を進めた時期で、院政はほぼ幕府の統制下にあった。順徳上皇の生母の修明門院が、広大な荘園を背景に孫の皇子を皇位に就けようと動いていた形跡もあり、院政を脅かしていたという指摘もある。1259年には、後深草天皇に弟の恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促した。
1268年10月に出家して法皇となり、大覚寺に移った。嵯峨には亀山殿を営んでおり、出家も崩御もそこで迎えた。1272年(文永9年)2月17日、53歳で崩御した。後嵯峨上皇は、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子である世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にし、治天の君を定めないまま崩御した。このことが、後の持明院統と大覚寺統の確執のきっかけとなり、南北朝時代へ続く長い大乱の源となった。陵は、京都市右京区の天龍寺の境内にある嵯峨南陵に定められている。
同じ年に亡くなった人物
- アンリ4世 (ブラバント公) (1272年没)
- イシュトヴァーン5世 (ハンガリー王) (1272年没)
- バルテルミ・ラングレ (1272年没)
- エンツォ (サルデーニャ王) (1272年没)
- リチャード (コーンウォール伯) (1272年没)
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