HISTORICAL PERSON · 1274年没

トマス・アクィナス

『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者で、ドミニコ会士。アルベルトゥス・マグヌスに学び、アリストテレスの手法を神学に導入した。パリ大学教授を務め、死後1323年に列聖された。

生涯
1274年没
死亡地
イタリア共和国(ラティーナ県 / フォッサノーヴァ修道院)
出生地
イタリア共和国(castle of the counts of Aquino)
出典
世界地図
イタリア共和国(ラティーナ県)

伝記

トマス・アクィナスは、中世ヨーロッパ、イタリアの神学者であり哲学者である。1225年ごろに生まれ、1274年3月7日に没した。シチリア王国の出身で、ドミニコ会士であり、『神学大全』で知られるスコラ学の代表的神学者である。カトリック教会と聖公会では聖人とされ、カトリック教会の教会博士の一人でもある。

南イタリアの貴族の家に生まれ、母テオドラは神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン家につらなる血筋だった。生まれたのは、ランドルフ伯だった父の居城で、アクイーノ近郊のロッカセッカ城と考えられている。伯父シニバルドがモンテ・カッシーノ修道院の院長であったため、やがてそこで院長として伯父の後を継ぐことが期待され、5歳で修道院に送られて学んだ。ナポリ大学を出ると、両親の期待を裏切ってドミニコ会に入会した。ドミニコ会は、フランシスコ会とともに、当時の教会制度に新機軸を打ち出した修道会であり、学問をリードする存在でもあった。家族は入会を喜ばず、彼を強制的にサン・ジョバンニ城の家族のもとへ連れ帰り、一年以上軟禁して翻意を促した。初期の伝記によれば、家族は若い女性を送り込んで誘惑させたが、トマスは彼女を追い払ったという。

ついに家族も折れて入会を許されると、ケルンで学び、生涯の師とあおぐアルベルトゥス・マグヌスと出会った。おそらく1244年ごろのことである。1245年にはアルベルトゥスとともにパリ大学に赴き、3年を過ごして、1248年に再びケルンへ戻った。アルベルトゥスの学問のスタイルはトマスに大きな影響を与え、アリストテレスの手法を神学に導入するきっかけとなった。1252年にドミニコ会から教授候補として推薦されてパリへ赴いたが、当時の教授会は托鉢修道会に敵対的で、学位の取得は長引いた。1256年に学位を得てパリ大学神学部教授となり、1257年に正式に教授会に迎え入れられた。1259年にはパリ大学を辞してイタリアに戻り、1261年ごろにはオルヴィエートの修道院で教えつつ、教皇ウルバヌス4世の願いで聖書註解や神学研究を行った。1265年には、ローマのサンタ・サビーナ聖堂で神学大学を設立した。

1269年に再びパリ大学神学部教授となり、シゲルスらのラテン・アヴェロエス派や、ジョン・ペッカムらのアウグスティヌス派と論争した。同時代の記録によれば、非常に太った大柄で色黒、頭は禿げ気味だったが、育ちのよさがうかがわれ、親しみやすい人柄だったという。議論で逆上することがなく、論争者たちもその人柄にほれこむほどで、記憶力が卓抜で、研究に没頭すると我を忘れるほどだった。1272年のフィレンツェの教会会議で神学大学の設立を求められると、温暖な故郷ナポリを選び、著作に専念して思想の集大成に努めた。

1274年の初頭、教皇の要請で第2リヨン公会議へ向かったが、道中で健康を害し、ソンニーノに近いフォッサノヴァのシトー会修道院で世を去った。シトー会士が遺体を渡すまいと暴挙に及んだとも言われるが、教皇の命令で1369年にようやく遺骨がドミニコ会に引き渡され、墓はトゥールーズにある。1323年7月18日に教皇ヨハネス22世が列聖を宣言した。「天使的博士」と呼ばれ、最大の業績は、キリスト教思想とアリストテレスを中心とする哲学を統合した体系の構築である。彼の思想はトマス主義として受け継がれ、19世紀末の新トマス主義を経て現代に及ぶ。

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