伝記
イェギシェ・チャレンツは、1897年3月25日、ロシア帝国のカルスで、ペルシアのマクーから来たアルメニア人の絨毯商の家に生まれた。本名はイェギシェ・ソゴモニアンといい、ソビエト連邦下のアルメニアの詩人である。幼いころから読書家で、アルメニアやロシアの詩、ダンテ、ユゴー、象徴派の詩人たちに親しんだ。1907年から1912年までカルスのロシア人実科学校に通い、民間のアルメニア人学校でも学んだ。1910年には学校の年鑑に詩を発表し、1914年に最初の詩集を出版した。このころから「チャレンツ」の筆名を使うようになるが、その由来は、カルスで出会った医師の名とも、アルメニア語の「いたずらっ子」とも、プーシキンの詩のアナグラムともいわれる。
第一次世界大戦が始まると、1915年に志願兵として戦い、ヴァンに送られた際にはアルメニア人の虐殺を目撃して、それを詩に書いた。戦争と虐殺に恐怖したことで、ボリシェヴィキをアルメニア民族の生存の希望とみなすようになり、熱烈な支持者となった。1916年に前線を離れ、1917年までモスクワで学び、2月には政治囚の釈放を求める学生デモに参加した。ロシア内戦が始まると赤軍に入ってカフカースで戦い、1918年からボリシェヴィキ党員となる一方、1919年からはアルメニア第一共和国の教育省にも勤めた。同年にチフリスで代表作『暴徒』を出版した。第一共和国のダシュナク党政権が倒され、ソビエト政権が成立すると、1920年に教育人民委員部の芸術部長に任命された。1921年2月のダシュナク党による蜂起は、武力で鎮圧する側にまわった。この時期に書いた故郷への頌歌「我はアルメニアという太陽の如く甘い響きを愛す」は、今も教科書に載る代表作である。
1921年に最初の妻アルペニク・テル=アストヴァツァリアンと結婚したが、彼女は1927年に妊娠が原因で亡くなった。1922年6月には、アボフ、ヴァシュツニとともに「3人の宣言」を発表し、プロレタリア国際主義への賛意を表明した。カルス条約でトルコへ割譲された故郷を描く愛国的な作品『ナイリの地』は、1923年に発表されて大成功を収めた。1925年にはレニナカンで文学会を結成して名誉会長となり、1926年にはアルメニア作家同盟の創設を主導し、1934年のソビエト連邦作家同盟の第1回大会にも出席した。1928年から1935年まで国営出版社の文芸部長を務め、プーシキンやゲーテ、マヤコフスキー、ゴーリキー、ホイットマンらの作品をアルメニア語に訳した。一方、1926年9月には散弾銃で少女を負傷させる事件を起こして有罪となり、エレヴァンの刑務所に服役している。1931年にイザベラ・ニアジアン=コダバシアンと再婚し、2人の娘が生まれた。
しかし、スターリンによる大粛清が始まると、作品の発表の場を失っていった。しばらくはアルメニア共産党第一書記ハンジャンに保護されたが、1936年にハンジャンが暗殺されると自宅に軟禁され、同年9月に反革命や民族主義的偏向などの容疑で逮捕された。1937年7月27日に反政府活動の容疑で再逮捕され、同年11月27日朝、衰弱してカタル性肺炎を病んだ末にエレヴァンの刑務所病院で死去した。遺体の埋葬場所は明らかになっていない。2人の娘は孤児院に送られ、妻も死刑判決を受けたが生き延びて、10年間を中央アジアに追放された。スターリンの死後の1954年に名誉が回復され、住居は1974年に博物館となった。アルメニアでは「20世紀における主要な詩人」と見なされている。
同じ年に亡くなった人物
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- エフゲニー・プレオブラジェンスキー (1937年没)
- レジナルド・ジョセフ・ミッチェル (1937年没)
- アルベール・ルーセル (1937年没)
- ポール・シャバ (1937年没)
同じ地域に関係する人物
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- アラケル・ババハニアン (1932年没)
- Hrant Shahinyan (1996年没)
- ラファエル・イスラエリヤン (1973年没)
- Minas Avetisyan (1975年没)