伝記
トマーシュ・ガリク・マサリクは、1850年3月7日、モラヴィア地方のホドニーンに生まれた社会学者・哲学者・政治家で、チェコスロバキア共和国の初代大統領(在任1918年〜1935年)である。当時のモラヴィアはオーストリア帝国の領内にあった。労働者階級の貧しい家庭の出で、父ヨーゼフはスロバキア人、母テレーザはドイツ語の教育を受けたモラヴィア出身の女性だった。父は御者から皇室領地の管理人になったとされ、母はその領地の料理人だった。若いころには鍛冶屋として働いたという。ブルノのギムナジウムを経て、1865年から1872年にはウィーンでも学んだ。
ウィーン大学ではブレンターノに学び、1876年にプラトンの魂を論じた論文で博士号を得て、1879年には近代文明の社会現象としての自殺を論じる論文で教授資格を取った。1876年から翌年にはライプツィヒ大学でヴントに学び、フッサールとも知り合った。ライプツィヒで出会ったアメリカ人のシャーロット・ガリッグと1878年3月15日に結婚し、のちにその姓をミドルネームとした。夫妻は1881年までウィーンに住み、プラハへ移った。1882年にプラハ大学の哲学教授に任命され、翌年にチェコの文化と学問のための雑誌を創刊し、オットー百科事典の編纂にも加わった。門下にはのちの大統領ベネシュがいる。
伝統的なチェコの叙事詩とされる写本を偽りとして退け、有力者たちの憎しみを買い、さらに1899年のヒルスナー事件では、ユダヤ人に向けられた儀式殺人の中傷に反対して人種的偏見と闘った。科学的な根拠を重んじ、社会問題や政治対立は無知から生じると考え、自らを大衆の無知と無関心を啓蒙する教育者とみなした。
政界では、1891年から1893年までオーストリア議会の議員を務めたが、いったん辞職して大学教授に戻り、チェコ民族の精神を高める啓蒙に努めた。1900年に自らリアリスト党を結成し、1907年の選挙で議会に復帰、1911年にも連続当選した。このころは、まだ独立を訴えてはいなかったが、1909年にはウィーンでクロアチア人・セルビア人連合の政治裁判の弁護を手伝った。1914年に第一次世界大戦が起こると、チェコ人とスロバキア人の独立こそ最善と考えるようになり、国家反逆罪での逮捕を避けて12月に娘のオルガとともに国外へ逃れた。ジュネーヴ、イタリア、イギリスで独立を訴え、キングス・カレッジ・ロンドンのスラブ人研究所教授として小民族の問題を講じた。1917年の二月革命の後には、オーストリアに対するスラブ人の抵抗を組織するため、ロシアの支援を受けた。
1918年10月18日にワシントンで、チェコスロバキアの独立を宣言した。この年オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、連合国がマサリクをチェコの代表者と認めた。1920年に初代大統領に選ばれ、以降2度の再選を果たした。1935年12月14日、健康の悪化を理由に辞職し、1937年9月14日に87歳で没した。チェコの最高額紙幣である5000コルナ札には肖像が使われ、ブルノのマサリク大学の名も彼に由来する。息子ヤンは亡命政府や戦後の外務大臣を務め、娘アリツェは、カレル大学に入学を許された最初期の女子学生の一人で、のち教授となった。
同じ年に亡くなった人物
- アレクシス・グラノフスキー (1937年没)
- オットー・ヘルダー (1937年没)
- ジョージ・ナトール (1937年没)
- アフメト・イッゼト・パシャ (1937年没)
- Mykhailo Semenko (1937年没)
同じ地域に関係する人物
- Josef Zeman (1999年没)
- ズデニェク・ミレル (2011年没)
- ヤクプ・シモン・ヤン・リバ (1815年没)
- カール・オイゼビウス (1684年没)
- Josef Kostalek (1971年没)