伝記
モーリス・ラヴェルは、1875年3月7日、フランス南西部のスペインに近いバスク地方のシブールで生まれた作曲家である。母マリーはマドリード育ちのバスク人、父ジョゼフはスイス出身の発明家兼実業家だった。同じ年の6月に一家はパリへ移り、弟エドゥアールが生まれた。ラヴェルが生まれ故郷に滞在したのは生後3か月だけだが、最初の思い出は母が歌ってくれたバスク民謡だったという。音楽好きの父は幼いころからピアノや作曲を学ばせ、音楽の道へ進むことを励ました。やがて両親はパリ音楽院へ送り出し、ラヴェルはそこで14年間、フォーレらのもとで学んだ。
1898年3月5日の国民音楽協会の演奏会で公式にデビューし、作曲家として認められたが、大胆な作風と、「解放者」と仰ぐシャブリエやサティへの賞賛は、伝統主義の人々の反感を買った。1901年に個性を確立した『水の戯れ』が書かれ、1901年から1908年にかけて『ソナチネ』『スペイン狂詩曲』『マ・メール・ロワ』『夜のガスパール』などが生まれた。一方、1900年から5回にわたってローマ大賞に挑み、1901年はカンタータ『ミルラ』で3位に入ったものの大賞は取れず、年齢制限で最後の挑戦となった1905年には予選で落選した。『亡き王女のためのパヴァーヌ』などを発表していた彼の予選落ちは大スキャンダルとなり、この「ラヴェル事件」で音楽院院長デュボワは辞職に追い込まれ、後任のフォーレが改革に乗り出した。
1907年、歌曲集『博物誌』の初演後にドビュッシーの盗作だと非難されて論争が起きたが、『スペイン狂詩曲』が高く評価されて批判はおさまった。バレエ・リュスの主宰者ディアギレフの委嘱でバレエ音楽『ダフニスとクロエ』を作曲した。1909年4月にロンドンで初の海外ツアーに参加し、1910年には保守的な国民音楽協会と決別して独立音楽協会の創立に加わった。1911年にオペラ『スペインの時』が初演されたが、批評家から「ポルノ」呼ばわりされて不評に終わった。
第一次世界大戦が始まるとパイロットを志願したが、体重が規定に2キログラム足りず、かなわなかった。1915年3月にトラック輸送兵となり、砲弾の下で資材を運んでヴェルダン付近まで達し、腹膜炎となって手術を受けた。1917年1月15日には最愛の母が76歳で亡くなり、創作意欲は極度に衰えて、『クープランの墓』の完成以外の3年間は実質的に新曲を生み出せなかった。1920年1月にはレジオンドヌール勲章にノミネートされたが、拒否したため物議を醸し、叙勲は撤回された。1920年代には、ラヴェルの音楽は時代の最先端ではなくなった。1928年に初めてアメリカへ渡って4か月の演奏旅行を行い、成功して世界的に有名になった。帰国後に残した曲は『ボレロ』『左手のためのピアノ協奏曲』『ピアノ協奏曲ト長調』『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』の4曲だけだった。
1927年ごろから軽い記憶障害や言語症に悩まされ、1932年にパリでタクシーに乗っていて事故に遭い、症状は進行した。文字が震え、動作が緩慢になり、50語ほどの手紙を書くのに辞書を使って1週間かかった。1933年11月に最後のコンサートを行い、1934年にスイスで保養したが回復しなかった。病気の原因については諸説ある。1937年12月17日に脳外科医ヴァンサンの手術を受け、一時は容体が改善したが、昏睡状態に陥り、12月28日に没した。ラヴェルは生涯独身で、弟のエドゥアールも子をもうけなかったため、ラヴェル家の血筋は途絶えた。
同じ年に亡くなった人物
- ロバート・ボーデン (1937年没)
- ハコブ・ハコビアン (1937年没)
- ピエール・ド・クーベルタン (1937年没)
- エリフ・トムソン (1937年没)
- ジェームス・マシュー・バリー (1937年没)
同じ地域に関係する人物
- ロレンツォ・マスケローニ (1800年没)
- ジュリアン・グリーン (1998年没)
- スタニスラス・ジュリアン (1873年没)
- エマニュエル・アルマン・ド・リシュリュー (デギュイヨン公爵) (1788年没)
- アナベラ (俳優) (1996年没)