HISTORICAL PERSON · 1275年没

エリナー・オブ・レスター

ジョン失地王の末娘。貞潔の誓いの後にレスター伯シモン・ド・モンフォールと秘密結婚し、夫の戦死後は反逆者の妻としてフランスに亡命し客死した。

生涯
1275年没
死亡地
フランス共和国(ロワレ県 / モンタルジ)
出生地
イギリス連邦(グロスター)
出典
世界地図
フランス共和国(ロワレ県)

伝記

エリナー・オブ・レスターは、1215年に生まれたイングランドの王族で、ジョン失地王と王妃イザベラ・オブ・アングレームの末の娘である。母が第1次バロン戦争でフランスと反乱諸侯の軍勢に首都ロンドンを占拠され、これを避けてグロスターに滞在していたときに生まれたとされるが、生地をウィンチェスターとする説もある。父は、翌年に末娘の顔を一度も見ることなく死去した。幼いころは、父の最も忠実な支持者の一人だったウィンチェスター司教ピーター・デ・ロッシュの家で育てられたとされる。

1219年、エリナーは、兄ヘンリー3世の摂政となった初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルの同名の長男、第2代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャルの許嫁となった。1220年には母がユーグ10世・ド・リュジニャンと再婚した。1224年4月23日、ロンドンのニュー・テンプル教会で結婚式を挙げた。花婿は34歳、花嫁は9歳ほどだった。この縁組は、マーシャルを司法長官ヒューバート・ド・バーグの側につなぎとめ、外国の花嫁を迎えるのを防ぐために取り決められ、3年にわたる迷いに終止符を打つものだった。持参金として、兄ヘンリー3世は、フランスの貴族から没収した10か所の荘園を与えた。夫妻に子はなく、夫は7年後の1231年に死去した。未亡人となったエリナーは、世俗の生活を捨てることを決意し、カンタベリー大司教エドマンド・リッチの立会いのもとで貞潔の誓いの儀式を行った。

数年後、エリナーは第6代レスター伯シモン・ド・モンフォールと知り合った。マシュー・パリスの年代記によれば、シモンは王女の資産と高貴な身分だけでなく、美しさと洗練された振る舞いにも魅了されたという。二人は恋愛関係になり、1238年1月7日、ウェストミンスター宮殿の王の礼拝堂で秘密に結婚した。ヘンリー3世はこの結婚をしぶしぶ認めた。エリナーが貞潔の誓いを立てたあとの再婚だったため、教会からは問題視された。シモンはローマに巡礼に出かけ、いったん貞潔を誓ったエリナーとの結婚に特免を出してもらった。シモンとのあいだには7人の子が生まれた。アンリは1238年、シモンは1240年、アモーリーは1242年か1243年、ギーは1244年の生まれで、リシャールは1252年に、エリナー・ド・モンフォールは1258年に生まれた。ほかにジャンヌがおり、早くに亡くなっている。

夫はヘンリー3世の寵臣として権勢をふるったが、やがて王と対立して第2次バロン戦争を引き起こし、1265年にイーヴシャムの戦いで国王軍と戦い、長男とともに敗死した。反逆者の妻となったエリナーはイングランドにいられなくなり、フランスに亡命して、シモンの妹が修道院長を務めるモンタルジの女子修道院に身を寄せた。兄ヘンリー3世は国を離れたエリナーを気遣い、収入を差し止めなかった。王はエリナーの代理人が、没収されたレスター伯領を取り戻すための訴訟をイングランドの裁判所で起こすことも認めた。エリナーは1275年4月13日にその地で客死し、遺言の内容は何の邪魔も受けずに遂行された。エドワード4世の王妃エリザベス・ウッドヴィルは、エリナーの8世孫にあたる。

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