伝記
オタカル2世は、プシェミスル朝のボヘミア王で、オーストリア公も兼ねた人物である。1230年ごろの生まれとされる。父はボヘミア王ヴァーツラフ1世、母はローマ王フィリップの娘クニグンデで、その次男にあたる。大空位時代にローマ王に選ばれたカスティーリャ王アルフォンソ10世は、母方の従弟である。1247年末、オタカルは下級の貴族に擁立されて父に対する反乱を起こし、一度は父をマイセンへ追いやった。しかし1249年に首都プラハに戻ったヴァーツラフに反乱軍は破られ、オタカルは捕らえられて監禁された。まもなく叔母アネシュカの仲裁で親子は和解し、釈放された。
一方オーストリアでは、バーベンベルク家のフリードリヒ2世が戦死して、男子の継承者が絶えていた。公女のマルガレーテとゲルトルートにも継承権が認められ、多くの者が二人に求婚した。オタカルの兄ヴラディスラフがゲルトルートと結婚したが、翌年に没した。領内の安定を求めるオーストリアの貴族はその弟のオタカルを招き、1252年2月、オタカルは20歳以上年上のマルガレーテと結婚した。1253年にボヘミア王となった。ゲルトルートがハンガリー王族のローマンと再婚してオーストリアに干渉すると、オタカルはハンガリーと交戦した。1254年、教皇インノケンティウス4世の仲裁によるブダの和約で、ボヘミアはトラウンガウとピッテンを、ハンガリーはシュタイアーマルクを得た。オタカルはラント平和令を出して領内の安定を図ったが、次第に貴族に干渉して教会と都市を優遇した。治世に建設されたと思われる都市は28にのぼり、他のプシェミスル家の君主の時代よりも都市の建設が盛んだった。1250年代にはドイツ騎士団のザーレラント進出を支援し、1255年に騎士団が建てた城砦は、彼に敬意を表してケーニヒスベルク(王の要塞)と名づけられた。
1259年、オタカルはザルツブルク大司教の地位をめぐる争いに介入し、ハンガリーの支援を受けたゼッカウ司教ウルリヒを破った。シュタイアーマルクの貴族がハンガリーの支配から逃れようと頼ってくると、軍を送って蜂起を援護し、1260年のクレッセンブルンの戦いでハンガリー軍に勝った。翌1261年のウィーンの和議で、シュタイアーマルクはオタカルのものとなった。同じ年、子ができそうにないマルガレーテとの結婚を解消し、ハンガリー王ベーラ4世の孫娘クンフタと再婚して、3人の子をもうけた。1262年には皇帝候補の一人リチャードにバーベンベルク家の所領を授封したが、これは当時の慣例から外れた行為だった。1265年に無許可で建てられた城壁を破壊し、1268年には多数のシュタイアーマルクの貴族を逮捕した。1272年にフリウリ総督となり、王国はズデーテンからアドリア海にまで及んだ。
1273年のローマ王選挙に、オタカルは姿を見せなかった。野心的な彼を嫌う諸侯はハプスブルク家のルドルフ1世を選び、オタカルはこれに強く反対して「貧乏伯」と見下した。1274年11月に帝国追放、1276年6月に重追放の処分を受けると、オーストリアの貴族はルドルフの側へ傾き、オタカルは不戦降伏してオーストリアなどの放棄を約束した。だが領地の引き渡しを拒み、両軍が集まった。1278年8月26日のマルヒフェルトの戦いで、ルドルフが配置した伏兵によりボヘミア軍は敗れた。逃げる途中、オタカルは自分が処刑したマーレンベルク家の郎党らしい者に捕らえられ、撲殺された。戦後、娘アネシュカとルドルフ1世の子ルドルフ、息子ヴァーツラフとルドルフ1世の娘グータの結婚が取り決められた。
同じ年に亡くなった人物
- バルニム1世 (ポメラニア公) (1278年没)
- オパヴァのマルティン (1278年没)
- ツィタ・ディ・ルッカ (1278年没)
- ボレスワフ2世ロガトカ (1278年没)
- ミツォ・アセン (1278年(推定))
同じ地域に関係する人物
- エルンスト・オツヴィルク (1980年没)
- Oskar Lenz (1925年没)
- ルドルフ・ヴィトラチル (1977年没)
- アグネス・フォン・ヴァイプリンゲン (1143年没)
- ニコラウス・フォン・ザルム (1530年没)