伝記
フィリッポス2世フィロロマイオスは、セレウコス朝シリア最後の王とされる人物である。紀元前95年頃に生まれ、紀元前56年頃に没したと伝わる。「フィロロマイオス」は「ローマ人の友」、別名の「バリポス」は「重い足」あるいは「鈍重な」を意味する。父はフィリッポス1世で、在位は紀元前69年から紀元前63年とされるが、紀元前65年から紀元前63年とする記述もあり、年代は一定しない。
父王の死後、フィリッポスはその支配域であったキリキアを引き継いだ。当時シリアの大半は、アルメニア王ティグラネス2世に征服されていた。フィリッポスはこの王に対抗した人物とされる。やがてティグラネス2世が第三次ミトリダテス戦争でローマに敗れ、アルメニアの支配に陰りが見えると、アラブ人の助力を受けて国土を回復したという。紀元前67年にはローマの海賊討伐戦に協力したともいわれる。
その後は、ローマからシリア王と認められていた三従弟のアンティオコス13世と王位を争った。アラブ人の支持を受けたフィリッポスは次第に優勢となり、アンティオキアをはじめとするアンティオコス13世の支配域を奪ったとされる。ただし、この時期のフィリッポスをアラブの有力者アジゾスの傀儡であったとする見方もあり、ローマの庇護下にあった王だったのかどうかは確かでない。両者はともにローマの将軍ポンペイウスの支持を得ようとしたが、ポンペイウスはどちらにも与しなかった。アンティオコス13世は廃位され、のちに殺害された。フィリッポスもポンペイウスによって廃位され、セレウコス朝の故地にはシリア属州が置かれた。その際、フィリッポスは命を奪われず、元来の根拠地であったキリキアに退いたという。一方で、紀元前64年にアンティオキアの騒乱のなかで不明瞭な状況のうちに死んだとする説もある。
紀元前56年、プトレマイオス朝エジプトの女王ベレニケ4世は、亡命した父プトレマイオス12世がローマと結んだのに対抗して、自らの結婚相手を探した。その候補にフィリッポスの名が挙がった。フィリッポスの祖母トリュファイナはベレニケ4世の祖父プトレマイオス9世の妹で、二人ははとこの関係にあたる。しかしローマのシリア総督アウルス・ガビニウスがこれに反対し、縁組は実現しなかった。フィリッポスは最終的にガビニウスの命で殺害されたとされる。ベレニケ4世は、のちにフィリッポスの親族にあたるセレウコス7世と結婚したが、その礼儀を欠く振る舞いを理由に殺させたという。
フィリッポスの貨幣はほとんど知られておらず、これはセレウコス朝の王としては異例である。貨幣鋳造の拠点となる都市を支配しなかったからではないかと考えられている。歴史上の存在感は小さい人物だが、その死とともに、11代にわたってヘレニズム世界の広い地域を治めたセレウコス朝は断絶したとされる。なお、フィリッポス2世と別の王を同一人物とみなす研究者もいる。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・マルキウス・ケンソリヌス (紀元前39年の執政官) (紀元前 50年(推定))
- ルキウス・リキニウス・ムレナ (紀元前 50年(推定))
- ガダラのメレアグロス (紀元前 50年(推定))
- プブリウス・ウァティニウス (紀元前 50年(推定))
- マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前30年の執政官) (紀元前 50年(推定))
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