伝記
プブリウス・ウァレリウス・カトーは、共和政ローマ末期の文法家であり詩人である。紀元前1世紀に活動し、紀元前84年頃に生まれ、紀元前54年頃に没したとする説がある。新詩人(ネオテロイ)と呼ばれる詩人たちの運動を代表する一人であった。
この運動の担い手たちは、国民的な叙事詩や演劇を退け、アレクサンドリア派の技巧的な神話叙事詩や哀歌を好み、エンニウスよりもカルキスのエウフォリオンを尊んだ。ギリシア文学と神話の知識、そして韻律の規則を厳格に守ることを、詩人に不可欠の条件とみなした。なかでもカトーは、小さな叙事詩(エピュリオン)と呼ばれる短く軽やかな詩形に優れ、この一派でもっとも称賛された人物だったかもしれないといわれる。仲間の詩人たちからは「文法家カトー、ラテンのセイレン、ただ一人詩人たちを読み、また作り上げる者」と呼ばれた。
出身はガリア・キサルピナで、ウェローナの生まれとされる。内乱の時代に生まれ、奴隷の生まれで、ある人物に解放されたのだと非難された。これに対してカトーは、『インディグナティオ』(憤慨)という書物の中で、自分は自由人の生まれであり、父の死後、成年に達する前にスッラの時代の混乱で財産を奪われたのだと述べて反論した。この書が散文か韻文かは定かでない。幼くして孤児になったともいわれる。ウェクティウス・ピロコムスに学んだという。
成人後は文法に関する論考を複数著し、教師として詩を教えて名声を得た。弟子には詩人のマルクス・フリウス・ビバクルスがいる。詩作でも、とくに『リュディア』と『ディアナ』(ディクティンナ)が同時代の人々に高く評価された。『リュディア』では、手放さなければならなかった恋人を歌ったとされる。一時は相当な富を築き、トゥスクルムに別荘を構えたが、負債がかさんで別荘を債権者に引き渡さざるをえなくなり、晩年は貧しい暮らしを送った。ビバクルスの二つの短詩は、師への敬意と、その境遇への憤りを詠んでいる。
ウェルギリウスに帰される小品のなかに『ディラエ』と『リュディア』がある。『ディラエ』は、奪われた土地と、そこに残さねばならない愛するリュディアへの呪詛であり、『リュディア』は逆にその土地を恋人の所有者として羨む詩である。この作品をカトーのものとしたのは、のちの学者スカリゲルが最初である。ホラティウスの『風刺詩』に付された無名の詩句に、ルキリウスの批評家として出るカトーも、おそらくこの人物であろうとされる。
同じ年に亡くなった人物
- プブリウス・ウァティニウス (紀元前 50年(推定))
- ルキウス・リキニウス・ムレナ (紀元前 50年(推定))
- ガダラのメレアグロス (紀元前 50年(推定))
- マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前30年の執政官) (紀元前 50年(推定))
- クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス (紀元前50年没)
同じ地域に関係する人物
- フランチェスコ2世・ゴンザーガ (1519年没)
- ヴェスパシアーノ・ゴンザーガ (1591年没)
- イザベッラ・クララ・ダウストリア (1685年没)
- Francesco Andreini (1624年没)
- ジュゼッペ・アチェルビ (1846年没)