伝記
嘉納治五郎は、万延元年10月28日(1860年12月10日)に摂津国御影村(現在の神戸市東灘区)に生まれ、昭和13年(1938年)5月4日に没した柔道家であり、文部官僚、教育者である。講道館柔道の創始者で、明治から昭和にかけて、柔道のみならず日本のスポーツ・体育の発展に尽力し、「柔道の父」「日本の体育の父」と呼ばれる。
父の治郎作は近江日吉大社の社家、生源寺家の出身で、嘉納家に逗留して論語を教えたことが縁で、当主治作の娘の定子と結婚し、婿養子となった。治作は酒造と廻船で名高く、治郎作は灘五郷の清酒を江戸に送る樽廻船業に従事して、幕府の廻船方御用達を務めた。治五郎はその三男として生まれた。6歳のころから漢学や儒教、書道を習い、9歳のときに母の定子を亡くした。翌1870年、明治政府要人となっていた勝海舟の推挙で、新政府に出仕する父に伴って上京した。成達書塾で書を学び、三叉学舎で英語を学び、育英義塾では洋学と英語、ドイツ語を学んだ。1874年に官立外国語学校に入学し、開成学校を経て、1877年に改組された東京大学の文学部に編入した。
在学中は、漢文学や和学、印度哲学を学び、講師の渋沢栄一の経済学の講義も受け、アーネスト・フェノロサの指導の下で政治学や哲学などを学び、特にスペンサー哲学に感銘を受けた。1881年7月に文学部政治学及理財学科を卒業し、翌1882年には哲学科も卒業した。同期卒業生には医学部の森鷗外がいる。1882年1月からは学習院の講師を務めた。
柔術を学びたいと考えたのは、育英義塾や開成学校のころ、自身の虚弱な体質から力の強い者に負けて悔しかったためだが、親の反対で許されなかった。当時は文明開化の時で柔術は軽視され、師匠を探すにも苦労したが、天神真楊流柔術の福田八之助に念願の入門を果たした。1879年7月には、渋沢栄一の依頼で、来日中のグラント前アメリカ大統領の前で、学友を相手に柔術を演武している。福田の死後は、家元の磯正智らに学び、のち起倒流の飯久保恒年にも学んだ。二つの流派の乱取の技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して、独自の柔道を作った。
1882年、下谷北稲荷町の永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場として、囲碁・将棋から段位制を取り入れて、講道館を設立した。1883年10月には、起倒流の免許皆伝を授かった。1889年の講演では、柔道修行の目的を、勝負法、体育法、修心法と定義した。1922年には講道館文化会を設立し、柔道の理念として「精力善用」「自他共栄」を発表した。1927年には「精力善用国民体育」を発表しており、体育と武術を兼ねて、いつでもどこでも稽古できる体育法であった。
教育者としても重用され、学習院で教頭まで務め、1891年に第五高等中学校長として小泉八雲を招いた。1893年からは3期23年余にわたって高等師範学校の校長を務め、1920年まで続けた。1896年には、文部大臣西園寺公望から託された清国留学生13名を受け入れ、1902年には弘文学院を開設して、後に魯迅も同校で学び、嘉納に師事した。柔道の精神として唱えた精力善用と自他共栄を校是とする灘中学校の設立に関与し、日本女子大学の創立委員にも名を連ねた。1905年には大日本武徳会から柔道範士号を授与され、1924年に東京高等師範学校名誉教授の称号を受けた。
同じ年に亡くなった人物
- メイ・アーウィン (1938年没)
- ルドルフ・シュタムラー (1938年没)
- ヴァレリアン・オボレンスキー (1938年没)
- アルマ・グルック (1938年没)
- ヨハン・ゲオルク・フォン・ザクセン (1869-1938) (1938年没)