伝記
カレル・チャペックは、1890年1月9日に生まれ、1938年12月25日に没したチェコの小説家、劇作家、ジャーナリスト、園芸家である。兄は、ナチス・ドイツの強制収容所で亡くなった画家で著作家のヨゼフ・チャペックである。大戦間のチェコスロバキアで最も人気のあった国民的作家であった。
当時オーストリア=ハンガリー帝国領だったボヘミアの小さな町マレー・スヴァトニョヴィツェで、チャペック家の三男として生まれた。家族は父母と姉、兄ヨゼフの5人で、父は町医者であり、地域の文化活動の中心を務めていた。1905年にボヘミア東部の中心都市のギムナジウムに進んだが、思想問題でやめなければならなくなり、結婚していた姉を頼ってブルノのチェコ語ギムナジウムへ移った。1909年にギムナジウムを優等で卒業し、カレル大学で哲学を専攻した。1910年にベルリンの大学へ留学し、1911年には兄のいるパリのソルボンヌ大学へ留学して、造形芸術家集団に参加した。ヨゼフとともに戯曲『盗賊』を書いている。1914年に第一次世界大戦が勃発したが、鼻骨の怪我により従軍することはなかった。1915年に帰国し、カレル大学で博士号を得た。しばらく家庭教師をしたが生計が立たず、実家から仕送りを受けた。1916年にチャペック兄弟として正式にデビューした。このころはフランス詩の翻訳に熱心に取り組んだ。持病の脊椎のリウマチにより兵役を免除されている。1917年からは、独立前に唯一発行が許されていた国民新聞に論説文を書いた。
1920年、プラハのヴィノフラディ劇場の演劇人としても活動していたチャペックは、戯曲『R.U.R.』を書き上げた。このときにロボットという言葉が生まれたと言われる。「労働」を意味するチェコ語「ロボタ」から作ったとされるが、彼自身は兄ヨゼフが作った言葉だと主張している。後に妻となるオルガ・シャインプフルゴヴァーとも、この頃出会った。1921年には、保守化していく国民新聞に不安を感じ、兄とともに民衆新聞へ移り、死ぬまで在籍した。1922年には『クラカチット』を連載し、戯曲『マクロプロス事件』を書いた。この年、大統領トマーシュ・マサリクと面識を持った。1924年に『クラカチット』が出版され、国家賞を受けた。この年の秋から、知識人を自宅に招いて討論する「金曜会」を開き、1926年にはマサリク大統領が初めて参加した。1925年にはペンクラブのプラハ支部の会長に選ばれた。1929年には兄ヨゼフの挿絵で『園芸家12カ月』を出版した。
1933年に、飼い犬を主人公にした『ダーシェンカ、子犬の生活』を出版した。1936年には『山椒魚戦争』を出版し、オルガと結婚した。この年、ノルウェーの新聞雑誌に、ノーベル賞を彼にという提案が初めて出された。小説『山椒魚戦争』と戯曲『母』では、ヒトラーとナチズムを痛烈に批判した。そのためゲシュタポ内では「チェコ第二の敵」として危険視された。1938年12月中旬、嵐で荒れた庭の手入れをしたことが原因で風邪をひき、いったん回復したものの悪化して、12月25日の未明に肺炎で亡くなった。小説『作曲家フォルティーンの生涯と作品』の草稿が未完で残った。1939年3月にナチス・ドイツがプラハを占領すると、ゲシュタポはいち早く彼を逮捕するためチャペック邸に踏み込んだが、オルガは夫が4か月前に没したことを、皮肉を込めて伝えたという。
同じ年に亡くなった人物
- ジョルジュ・リヨン (1938年没)
- サケン・セイフッリン (1938年没)
- キング・オリヴァー (1938年没)
- ヴァレリアン・オボレンスキー (1938年没)
- フョードル・シャリアピン (1938年没)
同じ地域に関係する人物
- フランティシェク・クサヴェル・デュシェック (1799年没)
- バーツラフ・チュトゥブルテク (1976年没)
- ヴェラ・ヒティロヴァ (2014年没)
- アロイス・ハーバ (1973年没)
- Jan Hermanek (1978年没)