伝記
ヴァシーリー・コンスタンチノヴィチ・ブリュヘルは、1889年、モスクワ北東のヤロスラヴリ県バルシチンカ村の農民の家に生まれたソビエト連邦の軍人で、のちにソ連邦元帥となった。本来の姓はグーロフといい、ブリュヘルは、有名なプロイセンのブリュッヘル将軍にちなんで19世紀の地主がこの家に付けた通称だった。ドイツ風の姓だが、出自がドイツにあったわけではない。若いころは工場労働者として働いたが、ストライキを呼びかけて逮捕され、服役した。1914年に帝政ロシア軍に召集されて下士官となり、戦功によりゲオルギー・メダルを授与されたが、1915年に負傷して予備役に編入された。その後、カザンの工場で働き、1916年にボリシェヴィキに加入し、サマーラで1917年のロシア革命に参加した。
1918年に赤軍に入隊すると、まもなく指揮官となり、ロシア内戦期にはボリシェヴィキ側の目立つ人物の一人となった。兵力1万の南ウラルパルチザン軍を率い、後方から攻め寄せる白軍を攻撃して断続的に40日間戦いながら、1500キロを進軍して赤軍の正規軍と合流した。この功績で赤旗勲章の初受賞者になり、感状には「不可能な状況でブリュヘル同志の行った攻撃は、アルプス越えを行ったスヴォーロフにこそ匹敵する」と記された。1918年9月に狙撃師団長となり、シベリアでコルチャーク軍と戦って、さらに2個の赤旗勲章を受けた。内戦が終結すると、1921年から1923年にかけてソビエト領に組み込まれる極東共和国の人民革命軍総司令官を務めた。
1924年から1927年までは中華民国の軍事顧問を務め、蒋介石の総司令部付きとなって、「ガーリン」と名乗った。国民党が中国統一を始める北伐の立案に責任を負い、この間に指導した者に、のち中国人民解放軍で指導的役割を果たす林彪がいた。帰国するとウクライナ軍管区司令官に任命され、1929年にはソ連極東の重要な軍である特別赤旗極東軍の司令官に転じた。ハバロフスクを拠点に、極東で自治的ともいえる権力を行使した。1930年には中ソの紛争で中国の将軍の部隊を撤退させ、赤星勲章の初受章者となり、レーニン勲章も授与され、広く「赤いナポレオン」の名で知られるようになり、1935年にソ連邦元帥に任命された。1938年の7月と8月には、日本統治下の朝鮮との国境で起きた張鼓峰事件で、日本軍に対してソ連軍を指揮した。
極東戦線が重要だったため、1937年にトゥハチェフスキーの処刑で始まったスターリンによる赤軍指揮官の粛清から、一時は逃れていた。実際、トゥハチェフスキーを有罪とした裁判にも加わっていた。しかし1938年10月、恐らく張鼓峰事件で見せた無能ぶりと軍における人望のゆえに、モスクワに呼び戻されて逮捕された。失脚の主因は、極東の内務人民委員部部長リュシコフが逮捕を恐れて、同年6月に日本へ逃亡したことにあるとされる。獄中で自白を拒み、正式な裁判を受けることはなく、片目が飛び出すほどの拷問を受け、1938年11月9日に獄死した。遺体はスターリンの命令で焼却されたとも伝えられる。長く、秘密裁判で有罪となり銃殺されたと信じられていた。1957年にフルシチョフにより名誉回復され、ロシアでは良く知られた人物として、記録映画や家族の著書が出ている。
同じ年に亡くなった人物
- ジョゼフ・シュトラウス (1938年没)
- クリスティアン・ロールフス (1938年没)
- ヴィクター・キャヴェンディッシュ (第9代デヴォンシャー公爵) (1938年没)
- ラモン・フランコ (1938年没)
- エフゲニー・ポリワーノフ (1938年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコライ・セミョーノヴィチ・チホノフ (1979年没)
- メラブ・ママルダシュヴィリ (1990年没)
- オリガ・レペシンスカヤ (2008年没)
- ヴラス・チュバーリ (1939年没)
- セルゲイ・レベデフ (計算機科学者) (1974年没)