伝記
マリアは、1875年10月29日にイギリスのケント州イーストウェル・パークで生まれた王女で、のちにルーマニア国王フェルディナンド1世の王妃となった。英語名はマリー・オブ・エディンバラである。父はヴィクトリア女王の次男エディンバラ公アルフレッド(のちザクセン=コーブルク=ゴータ公)、母はロシア皇帝アレクサンドル2世の娘マリアで、五人きょうだいの二番目だった。全名はマリー・アレクサンドラ・ヴィクトリアで、家族からは「ミッシー」と呼ばれた。妹にヴィクトリア・メリタやアレクサンドラ、ベアトリスがいる。父は海軍の勤務で家を空けることが多く、子どもたちの暮らしは母が取り仕切った。1886年に父が地中海艦隊の司令官になると一家はマルタに移り、マリーはここでの滞在を「生涯で最も幸せな思い出」と語っている。1889年には、父が伯父の後継者となったため、一家はコーブルクに引っ越した。
若いころのマリーは、ヨーロッパの王族との政略結婚が考えられていた。従兄のジョージ・オブ・ウェールズ(のちのジョージ5世)とは相思相愛で、結婚の申し込みも承諾していた。マリーの父とジョージの父は、どちらもこの結婚を歓迎していたが、母マリアがイギリス王室をひどく軽蔑していたために成立せず、外国の王家との縁組みが探された。1893年、父がザクセン=コーブルク=ゴータ公となる数か月前に、マリーはルーマニアの王太子フェルディナンド(国王カロル1世の甥)と結婚した。二人には3男3女が生まれたが、結婚生活は不幸だったとされる。腹心の友だったアメリカ人舞踏家ロイ・フラーは、のちにマリーが夫のことを「大嫌いな男」と漏らしていたと明かしている。
1914年、カロル1世の死によりフェルディナンドとともに国王・王妃となったが、第一次世界大戦のため戴冠は1922年まで待たねばならなかった。マリアは熱烈なルーマニア愛国者となり、意志が弱くて周囲に流されやすい夫に代わって国を統治したとまで言われた。戦争中は赤十字社に加わり、負傷者の看護にあたった。1917年に国土の半分がドイツ軍に踏みにじられると、マリアと軍の助言者たちは、ロシアに従わず、ルーマニア軍が独立してドイツとロシアの両方と戦うという道を選んだ。これにはアメリカから資金援助が得られた。戦後のヴェルサイユ講和会議には、ルーマニア語を話す住民のいる地域を統合する「大ルーマニア」の実現のため、国際的な顔としてマリアがフランスへ送り込まれた。「戦士王妃」の登場を国際メディアは熱狂的に迎え、ルーマニアは戦前より国土を4割も増やすことに成功した。トランシルヴァニアなどが新たに加わった。
長男カロル(のちのカロル2世)は、父とは生涯にわたって断絶状態にあった。マリアとカロルは深い結びつきを保っていたが、マリアが愛人との関係を続けていることを知ってから悪化した。マリアは、カロルが自分で花嫁を選ぶより、外国の王家からふさわしい女性を見つけたいと考えていたが、カロルはパリで愛人マグダ・ルペスクと親密にしているところをロイ・フラーに見られてしまった。二人を引き離すことはできず、王位についたカロルは母の忠告を退け、断絶は決定的になった。1927年に夫が没したあともルーマニアに残り、著作と回顧録を書いた。1938年に亡くなり、クルテア・デ・アルジェシュ大聖堂の夫の隣に葬られた。遺志により、心臓はマリアが建てさせたバルチク宮殿の納骨堂に納められ、1940年にバルチク宮殿がブルガリアに返還されると、ブラン城に移された。晩年にバハーイー教へ改宗していたことが明らかにされている。
同じ年に亡くなった人物
- クン・ベーラ (1938年没)
- Phil Bryant (1938年没)
- アクマリ・イクラモフ (1938年没)
- エトムント・フッサール (1938年没)
- ジョルジュ・メリエス (1938年没)
同じ地域に関係する人物
- アウレル・ヴライク (1913年没)
- Ion Panturu (2016年没)
- カロル1世 (ルーマニア王) (1914年没)
- ニコラエ・グリゴレスク (1907年没)
- フェルディナンド1世 (ルーマニア王) (1927年没)