伝記
オシップ・エミリエヴィチ・マンデリシュタームは、1891年1月15日にワルシャワで生まれたロシアのユダヤ系の詩人・エッセイストである。裕福な鞣し皮商人の家に生まれ、母も教養人だった。翌年サンクトペテルブルクへ移り、1900年から1907年まで、名高いテニシェフ学校で学んだ。1907年に最初の詩を学校の回覧雑誌に載せ、翌年にはパリのソルボンヌ大学に留学した。ペテルブルク大学に入れず、1909年にドイツのハイデルベルク大学に移って古フランス語や美術史を学んだ。1911年にキリスト教に改宗してペテルブルク大学に籍を置いたが、ギリシア文学の試験に失敗して卒業できず、ついに高等教育を終えることはなかった。
同じ1911年、アクメイスト(アクメイズム)の指導者ニコライ・グミリョフとセルゲイ・ゴロデツキーに出会い、結成されたばかりのサークル「詩人の職場」に加わった。1912年ごろにサークルの宣言文として論文『アクメイズムの朝』を書き、1913年に第一詩集『石』を自費出版した。アクメイズムは神秘的な表現を排し、現実を重視して、分かりやすい言葉で表現する詩であり、アンナ・アフマートヴァとともにその活動の中心を担った。象徴主義から離れたこの詩集により、新しい流派の代表者として高く評価された。
1919年にはメンシェヴィキ支配下のグルジアで、ボリシェヴィキのスパイとの容疑で逮捕されたことがあると、イリヤ・エレンブルクが伝えている。1922年に結婚したばかりの妻ナジェージダを連れてモスクワに着き、この年に第二詩集『トリスチア』がベルリンで出版された。以後数年は、エッセイや文学批評、小散文に専念し、ほとんど詩を書かなかった。二つの回想録『時のざわめき』と『フェオドーシア』は1925年に発表された。生活を支えるために新聞の通信員となり、翻訳もして、6年間に19冊を出版させた。1928年には詩集、散文集、詩論集を出したが、その後は攻撃が始まり、反革命的だとみなされて単行本が出なくなった。1930年にはアルメニアを訪れ、その旅の記録が1933年に雑誌『星』に載ったのを最後に、読者の前から姿を消した。
不服従の精神が、1933年の秋に有名な『スターリン・エピグラム』を書かせた。「私たちは足下に大地を感じずに生きている」と詠い、「クレムリンの登山家たち」を非難して、スターリンの集団化とその結果の大飢饉を「16の死刑宣告」と呼んだ。1934年5月に逮捕され、3年の流刑の判決を受けた。流刑地はカマ川上流の小さな町チェルドゥイニだったが、妻が党中央委員会に打電し、スターリン自身が事件の再検を命じたため、本人の選んだヴォローネジに移ることができた。1937年5月にモスクワの自宅へ戻ったが、翌1938年5月に再逮捕され、重労働5年を宣告された。ウラジオストク近郊のフタラヤ・レチカの一時収容所で、妻へ衣服を送るよう頼む手紙を託した直後に、1938年12月27日ごろ亡くなったといわれる。病名はチフスとされ、他の犠牲者とともに収容所の近くに埋められたが、場所は今も分かっていない。
1956年に1938年の罪状について無罪が宣告され、1987年10月28日にはゴルバチョフにより1934年の罪状についても無罪とされて、完全に名誉回復された。パウル・ツェラン、ヨシフ・ブロツキー、シェイマス・ヒーニーら、多くの20世紀の詩人に影響を与えた。エッセイ『対話者について』で、詩を遭難した航海者が海に投じる投瓶通信にたとえた言葉は、ツェランのブレーメン文学賞の受賞講演に引用された。
同じ年に亡くなった人物
- エルンスト・ハルトヴィッヒ (1938年没)
- マリアンネ・フォン・ヴェレフキン (1938年没)
- ラモン・フランコ (1938年没)
- ベンジャミン・カードーゾ (1938年没)
- アレクセイ・ルイコフ (1938年没)
同じ地域に関係する人物
- グリゴーリー・グリゴリエヴィチ・ネリュボフ (1966年没)
- ウラジーミル・アルセーニエフ (1930年没)