HISTORICAL PERSON · 紀元前46年没

マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス

大カトの曾孫で、ストア派哲学に基づく質素な暮らしと清廉さで知られた。幼くして叔父ドルススに育てられ、カティリナ事件ではキケロを支えて共謀者の死刑を提案した。カエサルとは生涯対立し、前46年に没した。

生涯
紀元前46年没
死亡地
チュニジア共和国(ビゼルト県 / ウティカ)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
チュニジア共和国(ビゼルト県)

伝記

マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスは、紀元前95年に生まれ、紀元前46年4月に没した共和政ローマ期の政治家・哲学者である。高潔で実直、清廉潔白な人物として知られ、ポエニ戦争の時代に活躍した大カトの曾孫にあたる。曾祖父と区別するため、ウティカのカト、または小カトと呼ばれる。セルウィリアは異父姉、マルクス・ユニウス・ブルトゥスは甥で婿であった。

幼くして両親を失い、母方の叔父である護民官ドルススのもとで、異父兄カエピオらとともに育てられた。あるとき、叔父の家を訪れた同盟市戦争の指導者の一人が、ローマ市民権獲得への口添えを求めて幼いカトを逆さ吊りにして脅したが、カトはきっぱり断ったという。その指導者は「彼が大人だったら、我々は民会で票を獲得できなかっただろう」と語ったと伝わる。叔父はカトが4歳の時に暗殺された。カトは最初にアエミリア・レピダと婚約したが破棄され、のちにアティリアと結婚して息子と娘をもうけた。成人して遺産を受け取ると叔父の家を出て、ストア派哲学と政治の研究を始め、贅沢を避けて安価なワインを好んだと伝えられる。

紀元前72年には第三次奴隷戦争に義勇兵として加わり、果敢さを示したが、執政官ゲッリウスが与えようとした賞は辞退した。紀元前67年にはマケドニアで軍団を担当し、兵と寝食を共にして厳しい軍律を課したが、兵には支持された。最愛の兄カエピオが重篤との知らせに嵐の中を急いだものの、到着した時にはすでに死去しており、贅沢を避けたカトも、兄の葬儀だけは自費で大きな費用をかけたという。帰国後は財務官に選ばれ、税に関する法を学び、国庫の不正流用を告発して市民の喝采を受けた。

紀元前63年にはカティリナの陰謀が発覚し、カトは対処にあたる執政官キケロを支持して、共謀者の死刑を提案した。元老院でカエサルは死刑に反対したが、カトは彼を激しく追及し、以後カエサルは生涯の政敵となった。追及の最中にカエサルへ届いた文書は、セルウィリアの恋文で、カトは大いに恥をかいたと伝わる。紀元前61年には凱旋式のための執政官選挙延期を求めるポンペイウスの申し出に反対し、娘との縁組の申し込みも拒んだ。カエサルの同様の要請には長い演説で議事を妨害し、カエサルは断念して、ポンペイウス、クラッススと第一回三頭政治を結んだ。紀元前59年、カエサルが三頭政治の密約どおり執政官に当選すると、その農地法案にもカトは長演説で抵抗し、議場から退去させられかけたが、異議が相次いでカエサルは解除に追い込まれた。

紀元前58年、クロディウスの提案でキプロス総督となったカトは、併合を無事に完了して銀貨7,000タラントをローマにもたらしたが、不正は行わず、凱旋式の申し出も法に反するとして断った。紀元前56年に帰国してからは反カエサルの旗頭としてポンペイウスに接近し、紀元前53年のクラッスス戦死で三頭政治は名実ともに崩れた。紀元前52年、クロディウスの暗殺で混乱したローマを治めるため、ポンペイウスに単独で執政官に就くよう要請したのもカトである。紀元前51年の執政官選挙には立候補して敗れたが、贈収賄が横行する中でも正々堂々と戦い、これが最後の立候補となった。紀元前49年、カトらはカエサルの譲歩案を拒み、元老院最終決議を出させ、カエサルはルビコン川を渡った。カトはギリシアへ逃れ、ポンペイウスの敗北後はアフリカのウティカに入り、総司令官をメテッルス・スキピオに譲って守備についた。紀元前46年4月の戦いで元老院派は敗れ、カトはこの年に世を去った。

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