伝記
ジェームズ・ネイスミスは、1861年11月6日、現在のカナダ・オンタリオ州にあたるオールモント村に、スコットランド系の両親の子として生まれた体育教育者で、バスケットボールの考案者として有名である。中間名は持たなかったとされ、資料に見えるAの頭文字は、カンザス大学の事務で付け加えられたものらしい。少年期に親を失い、叔父夫妻に育てられた。幼い頃は、外で捕まえっこや隠れんぼをして遊び、石を置いて別の石をぶつけて倒す遊びにも親しんだ。のちにこの遊びの要素は、新しい競技に盛り込まれた。1883年にオールモント高校を卒業し、同年、モントリオールのマギル大学に入学した。小柄だったが多才な運動選手で、ラグビーやラクロス、サッカー、体操などでマギルの代表になった。この大学で哲学とヘブライ語を学んで学士号を取り、マギル関連の神学校に進んで、体育講師の職にも就いた。
モントリオールのキリスト教青年会に通ううち、1891年にアメリカのマサチューセッツ州にあるキリスト教青年会の訓練校(現在のスプリングフィールド大学)で学ぶ機会を得て、学生として、また非常勤の体育講師として研究を続けた。この年、体育学部長のルーサー・ギューリックは、冬のニューイングランドで学生が体を動かせるよう、屋内競技の考案を課題として与えた。学生の案はラグビーやサッカーのように身体接触を含み、屋内に向かないものが多かったが、ギューリックはネイスミスの案に興味を持ち、2週間で詳細を詰めるよう指示した。ネイスミスの考えた競技は、ボールを持って走らない、身体接触をしない、頭上に水平のゴールを置く、競技者はいつでもボールを奪って得点できる、という基本ルールを持っていた。高い位置に水平のゴールを置けば、得点には力より正確さが必要になり、怪我の機会も減らせると考えたからだった。ラグビーやサッカー、ラクロスもヒントになった。
1891年12月21日、授業でこの競技を初めて行う際、たまたま手に入った桃の籠を体育館のバルコニーの下に据えてゴールとし、サッカーボールを使って、1チーム9人で行った。競技は学生の案で「バスケットボール」と名づけられた。翌1892年にネイスミスが13の公式ルールを加え、競技は全米のキリスト教青年会で行われるようになった。訓練校には留学生もおり、外国にもまもなく広まった。1895年から1898年までデンバーのキリスト教青年会で体育の教官を務め、同じ時期にコロラド大学で医学を修め、1898年にカンザス大学に職を得て、のち教授になった。1898年から1907年までは、同大学のバスケットボールクラブ「ジェイホークス」の初代監督も務めた。
1936年のベルリンオリンピックで最初のバスケットボールの試合が行われる際には、始球式に参加した。1939年11月に脳内出血を起こし、9日後の11月28日に心臓発作で死去した。78歳だった。墓所は、41年間を過ごしたカンザス州ローレンスにある。死の10年後の1949年にはネイスミス記念バスケットボール殿堂が設立され、1959年にネイスミスは「貢献者」部門で殿堂入りした。1967年から世界選手権の優勝国にネイスミス・トロフィーが、1969年から大学の最優秀選手にネイスミス賞が授与されている。
同じ年に亡くなった人物
- ポリーナ・オシペンコ (1939年没)
- エドワード・ウェスターマーク (1939年没)
- Halil Pasha (1939年没)
- ジャン・ブガッティ (1939年没)
- オットー・ベルグ (1939年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョゼフ・コロンボ (1978年没)
- ジョン・C・ウッズ (1950年没)
- ポヒヴァ・トゥイオネトア (2023年没)
- John Keller (2000年没)
- サチェル・ペイジ (1982年没)