伝記
アルフォンソ3世は、1265年11月4日にバレンシアで生まれた。アラゴン王ペドロ3世と、シチリア王マンフレーディの王女である王妃コンスタンサとの長男で、弟にハイメ2世とフェデリーコ2世がいる。自由王、あるいは率直王と呼ばれた。1282年に父がシチリアの征服に向かうと、父の王国の統治を任された。1285年には、フランス王フィリップ3世の攻撃からカタルーニャの諸伯領を守る戦いに加わった。
同じ1285年から翌年にかけて、アルフォンソは父の命を受けて、叔父のマヨルカ王ハイメ2世からイビサ島とマヨルカ島を奪った。叔父が同年6月から10月のフランス軍のカタルーニャ侵攻を助けたことを罰するためで、これによってマヨルカ王国はアラゴンに貢ぎ物を納める国になった。父ペドロ3世が没した1285年に、アルフォンソはマヨルカにいて遠征軍を率いており、遠征が終わるとアリカンテに戻った。バレンシアで1286年2月2日に王として宣誓し、4月9日にはサラゴサの大聖堂で、ウエスカ司教の手によってアラゴン王として戴冠した。
地中海への野心は、疎外感を抱いたアラゴンの貴族たちの不満を呼んだ。王が慣習法の宣誓の前に王と宣言されたことなどが、その一因だった。1286年6月のサラゴサ、10月のウエスカの議会は、王と貴族の報復や武力衝突に終わり、貴族たちは、教皇がペドロ3世の王国の主として指名したシャルル・ド・ヴァロワに王位を与えると脅した。その一方で、アルフォンソはメノルカ島の攻略を準備した。島の領主アブー・ウマルは、チュニスやフランスと結んだと非難され、北アフリカの諸都市を支援し、貿易を妨げる海賊の拠点にもなっていたからである。11月21日に出航した艦隊はマヨルカで年を越し、およそ2万の兵と100隻を超す船団で、1287年1月5日にマオンの港に着いた。上陸は17日で、この日は今日メノルカの日とされる。1月20日のセント・アガイス協定で、島の住民は王の農奴となり、財産は没収されたが、6か月以内に金貨7枚半を払えば免れた。払えない者は北アフリカの市場に奴隷として売られた。アブー・ウマルは200人の親族らと北アフリカへ去ることを許された。島は無人に近くなり、土地は貴族に分け与えられ、主にカタルーニャ人が入植した。アルフォンソは島の中心シウタデリャに45日間とどまり、統治の方針を定めて、古いモスクの跡に大聖堂を建てるよう命じた。工事が始まったのは、彼の没後の1300年ごろである。
1287年、アルフォンソは貴族に「連合の一般特権」を認めた。毎年サラゴサで議会を開き、王の顧問団は議会が選び、連合に対しては裁判官の判決と議会の許可なしに行動しないことを約束するもので、王がこれに背けば、貴族は服従を拒んで別の君主を選べた。このためアルフォンソは「アラゴンには富裕な貴族の数だけ王がいる」と言ったという。貴族を抑えられず、王権は弱まった。1291年6月18日、アルフォンソは未婚のまま27歳で没し、すでにシチリア王だった弟ハイメが、アラゴン王位も継いだ。ダンテの『神曲』では、煉獄の門の外に13世紀の他の君主たちと並んで現れ、混乱をもたらしたとして非難されている。
同じ年に亡くなった人物
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- アルグン (1291年没)
- サラーミシュ (1291年没)
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- リカルド・サモラ (1978年没)
- リカルド・ボフィル (2022年没)
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