伝記
ニヌルタ・ナーディン・シュミは、イシン第2王朝(バビロン第4王朝)の第3代の王である。名は「ニヌルタは子孫を授ける者」を意味する。治世は前1127年から前1122年ごろとされ、7年間在位したともいわれるが、前1132年ごろから前1126年ごろ、あるいは前1131年ごろから前1125年ごろとする説もあり、在位を6年とする記述もある。同じ時代のアッシリア王アッシュール・レーシュ・イシ1世(前1133年ごろから前1115年ごろ)と争った。
前王イッティ・マルドゥク・バラトゥとの関係ははっきりしない。バビロニア王名表Cによれば先王たちとの血縁はなく、他の碑文からも前王との関係は分からないとされる。一方で、前王の子で、前王が前1131年ごろにエラムとの戦いで亡くなったのちに王位を継いだとする説明もある。ロレスターン産の青銅の短剣には、彼の名による同文の短い銘文が2つ刻まれており、「世界の王、バビロンの王、シュメールとアッカドの王」という大仰な称号が記されている。この称号は後継の王たちが盲目的にまねることになった。この時代のものとみられる境界石(クドゥル)も1つ知られている。
アッシリアとの争いについては、断片的な叙事詩が伝える。ディヤラ川上流の国境地帯とアルベラの町が両者の間で争われ、アッシリア軍が迫るとバビロニア側が町から逃げたことを示唆する内容である。ただし、本文があまりに断片的なため確かな解釈はできない。彼は多くの軍事的成功を収めたともいわれる。それでも、彼の軍勢がアッシリア本土の奥深くまで入り込んだことは重要とみられている。アッシリアの碑文によれば、彼とのちの息子ネブカドネザル1世の軍がアッシリア領に攻め入り、アッシリア王を自国から逃れさせてアルベラへ向かわせたという。別の説明では、彼はディヤラ川上流域とアルベラを手に入れ、アッシリアの王位をめぐるニヌルタ・トゥクルティ・アッシュルとムタッキル・ヌスクの争いにも関わり、前者にマルドゥク神の聖像を返還させたとされる。
アッシュール・レーシュ・イシに宛てた、見下すような調子の手紙の作者かもしれないとも考えられている。手紙は2つの断片で残り、国境の町ザッカで1日待ってくれればよかったのに、と会見に現れなかったアッシリア王をとがめる。さらに、ムタッキル・ヌスクに倒されたのちバビロンに迎えられて亡命していたと後代の年代記が伝えるニヌルタ・トゥクルティ・アッシュルを、アッシリアの王位に復帰させると脅している。手紙には従者クンヌトゥ、その主人アッシュール・シュム・リシル、ハビルのハルビ・シパクといった人物が登場するが、ほかに古代の記録がなく、役割は不明である。この時期、彼はアッシリア王を自らの家臣のように見ていたのかもしれないという見方もある。
治世の終わりには、エラム王シルハク・インシュシナク1世との対立が再燃した。前1125年ごろ、彼は決定的な敗北を喫して捕らえられ、エラムへ送られたとされる。その後の運命は分かっていない。古代には、何よりも後継者の父として記憶された。その人物とは、名高い王ネブカドネザル1世である。子孫はさらに3世代にわたって王位を保ち、王朝の第7代マルドゥク・シャーピク・ゼーリまで続いた。ほかに息子マルドゥク・ナーディン・アッヘや孫エンリル・ナーディン・アプリも王位に就いたと伝えられる。
同じ年に亡くなった人物
- アダド・シュマ・ウスル (紀元前1200)
- エンリル・クドゥリ・ウツル (紀元前 1200年(推定))
- ニヌルタ・アピル・エクル (紀元前 1200年(推定))
- ドゥアテントペト (紀元前1200)
- アンムラピ (紀元前1200)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。