HISTORICAL PERSON · 1294年没

ロジャー・ベーコン

「驚嘆的博士」と呼ばれた13世紀イングランドの哲学者で、フランシスコ会士。実験と観察を重視し近代科学の先駆者とされる。教皇の求めで『大著作』などを送ったが、後に断罪され投獄された。

生涯
1294年没
死亡地
イギリス連邦(オックスフォードシャー / オックスフォード)
出生地
イギリス連邦(イルチェスター)
出典
世界地図
イギリス連邦(オックスフォードシャー)

伝記

ロジャー・ベーコンは、一二一四年頃から一二九四年にかけて生きた、十三世紀イングランドの哲学者であり、フランシスコ会の修道士である。驚嘆的博士と呼ばれ、当時としては珍しく、理論だけでなく経験や実験観察を重んじたため、近代科学の先駆者といわれる。サマセット州のイルチェスターに生まれたが、生年は一二一〇年、一二一三年または一二一四年、一二一五年、一二二〇年などと諸説あり、はっきりしない。唯一の手がかりは、一二六七年の著作にある、初歩の学問を学んでから四十年が過ぎたという記述だけである。生家はもともと裕福だったとされるが、ヘンリー3世の時代の政争に巻き込まれ、資産を没収されて、家族は追放の憂き目にあった。

ベーコンはオックスフォード大学で学び、アリストテレスの著作を講義する教師となった。パリ大学にも赴き、当時新進の修道会だったフランシスコ会とドミニコ会が学問の世界で活躍するなか、その優秀さは注目された。パリでの同僚には、アルベルトゥス・マグヌスらがいた。また、マリスコのアダムやリンカン司教ロバート・グロステストといった当代の学者たちと親交を結んだという。フランシスコ会に入ったのは一二五六年か一二五七年で、パリかオックスフォードでのことだったとされる。授業には実験や観察を取り入れる特徴があった。彼の学問はイスラム圏の科学者の著作に由来するものが多く、そのため当時のヨーロッパの学問の問題点に気づいた。アリストテレスはわずかな不十分な翻訳でしか知られておらず、学者たちはギリシア語を学ぼうともしなかったからである。物理の研究は、アリストテレス流の手法ではなく、イブン・アル・ハイサムのような経験に基づく方法で行われていた。

一二六〇年以降、修道会には、許可なく書物を公刊することを禁じる規則があり、彼の活動は制約された。この頃、ナルボンヌ司教でサビーナ枢機卿のギー・フールクと知り合い、その学識に関心を持った枢機卿から著作をまとめるよう求められたが、禁令のため、はじめは乗り気でなかった。やがてこの枢機卿が教皇クレメンス4世になると、教皇は禁令を無視してでも秘密裏に書くよう求めた。ベーコンはこれを受けて著作をまとめ、一二六七年に教皇へ送った。続いて『小著作』が書かれ、一二六八年には『第三著作』が教皇に送られたが、教皇は同年に亡くなった。保護を失った彼は、一二七八年にフランシスコ会内部で断罪され、アラブ思想を広めた疑いで投獄された。幽閉は十年に及び、同郷のイングランド貴族が解放を求めたため、釈放されたという。

著作のなかで、神学研究の改革を唱え、スコラ学のような概念の細かな区分をやめて、聖書そのものを研究すべきだと考えた。研究者に聖書の原典の言葉、ギリシア語やヘブライ語を学ぶことを求め、誤写と誤訳によって原典から遠ざかった当時の聖書や哲学書を嘆いた。大学の課程の改革も必要だと考え、広く諸学問を学ぶことを勧めた。数学、光学、化学を論じ、後世の顕微鏡や望遠鏡、飛行機、蒸気船の発明まで予想したとされる。また、ユリウス暦の問題点を指摘し、ニュートンより四百年早く、水を入れたグラスで光のスペクトルを観測したともいわれる。ただ、二十一世紀の再評価では、彼は本質的には中世の思想家であり、実験的な知識の多くは書物から得たものだと強調されている。

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