伝記
カルロ・マルテッロ・ダンジョは、ナポリ王カルロ2世の長男で、ハンガリー王位を請求した名目上のハンガリー王である。ハンガリー語ではアニョウ・マルテル・カーロイ、フランス語ではシャルル・マルテル・ダンジューとも呼ばれる。のちのハンガリー王家となったアンジュー・ハンガリー家の祖にあたる。1271年9月8日、ナポリで生まれた。父はプロヴァンス伯、アンジュー伯、メーヌ伯も兼ねた。母はのちにナポリ王妃となったハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘マーリアで、ハンガリー王ラースロー4世の姉にあたる。幼いころから母の影響を受け、ハンガリーとその王位に強い関心を抱いたという。
1281年、ローマ王ルドルフ1世の娘クレメンツァと結婚した。1284年に父カルロ2世がアラゴン王ペドロ3世に捕らえられ、祖父のカルロ1世も王国を離れていたため、母マーリアが息子に代わって国を治めた。1288年には長男カルロ・ロベルトが生まれた。1289年、父らとともにシチリアへの遠征に加わって初陣を飾り、父がナポリに戻ると、サレルノ公に叙された。その後はナポリの総代官に任命された。
1290年、叔父のラースロー4世が跡継ぎのないまま暗殺された。父はカルロ・マルテッロを騎士に叙し、教皇の承認を得て彼の王位継承権を主張した。教皇ニコラウス4世は、十字軍の派兵を条件に承認したという。母のマーリアも、自分の継承権を息子に譲った。ところがハンガリーの貴族たちは、ラースロー4世のいとこで、ヴェネツィアから急ぎ到着したアンドラーシュ3世を、すでに王に選んでいた。同じ1290年には長女ベアトリスが生まれた。1291年には母が「ハンガリー女王」として戴冠した。カルロ・マルテッロは自らもハンガリー王を称したが、実際に戴冠したことはなかったようである。アンジュー伯領とメーヌ伯領への権利は放棄し、これらは妹マルグリットの持参金となった。ハンガリーへ赴いて王国を征服しようとはせず、王の称号だけにとどまった。
1293年には次女クレメンツァが生まれた。1294年、カルロ・マルテッロはフィレンツェを訪れ、フランスから戻る両親と落ち合った。市は一行を歓迎し、迎えの使節団にはダンテ・アリギエーリも加わっていた。二人は文学の好みが同じで、互いを知り、気に入ったらしい。ダンテは『神曲』天国篇の第8歌から第9歌にかけて、金星の天で彼の魂と出会う場面を長く描いた。1294年以降も王位への野心を捨てず、ハプスブルク家のアルブレヒト1世を強力な同盟者として、ハンガリーの一部を奪おうとした。しかし1295年8月(12日とも19日ともいわれる)、ナポリでペストにより23歳で世を去った。ナポリの大聖堂に葬られた。母は孫のカルロ・ロベルトを励まして王位を目指させ、1301年にアンドラーシュ3世が没してアールパード朝が絶えると、王位をめぐる争いのすえ、カルロ・ロベルトが正式に戴冠してカーロイ1世となり、1308年から1342年まで在位した。長女ベアトリスは1296年にヴィエノワ太子ジャン2世と結婚し、次女クレメンツァは1315年にフランス王ルイ10世の妃となった。
同じ年に亡くなった人物
- サンチョ4世 (カスティーリャ王) (1295年没)
- ブトヴィーダス (1295年没)
- ギルバート・ド・クレア (第7代グロスター伯) (1295年)
- バイドゥ (イルハン朝) (1295年没)
- ベアトリス・デ・ナバラ (ブルゴーニュ公妃) (1295年没)
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