伝記
フェネンナ・クヤフスカは、ハンガリー王アンドラーシュ3世の妃となったポーランドの公女である。イノヴロツワフ公ジェモミスウの娘で、母はポモジェのルビシェヴォ公サンボル2世の娘サロメアである。生まれた年ははっきりしない。両親の結婚は1268年の2月ごろとされ、もし彼女が長子なら同年の暮れごろに生まれたことになる。1290年に結婚し、2年後の1292年に子を産んだ時に15歳ほどだったと見られることから、出生は1268年から1277年のあいだと考えられている。ジェモミスウの子のうち、夭折した長女エウフェミアと、レシェクとのあいだの第2子だったとされる。フェネンナという名は旧約聖書の預言者サムエルの父エルカナの二人の妻の一方にちなむもので、ポーランドでは珍しく、ピャスト家の女性ではただ一人である。
1290年7月、アンドラーシュ3世がハンガリー王に即位した。最初の決定の一つが、ポーランドの実力者だったクヤヴィのヴワディスワフ1世短躯公との同盟である。ヴワディスワフはフェネンナの父方の叔父で、ポーランド王位を得ようとして同盟者を探していた。この縁組は彼の主導で進められた。交渉は9月に始まり、遅くとも10月9日には、王の花嫁となるクヤヴィの公女がハンガリーに着いた。結婚式は9月から11月下旬のあいだに行われ、フェネンナはおそらく式のころか、その直後に王妃として戴冠した。この結婚で、ポーランドは再統合が進む「王国」として、ハンガリー王と親しい関係を築くことができた。
クヤヴィの諸公は、アンドラーシュ3世が王位を争うカルロ・マルテッロ・ダンジョを倒すのを助けた。カルロ・マルテッロは1290年に暗殺された「クマン人の王」ラースロー4世の甥である。見返りにハンガリーは、ヴワディスワフ1世がボヘミア王ヴァーツラフ2世やグウォグフ公ヘンリク3世と争うとき、食糧と兵で支えた。フェネンナ自身は、ハンガリー宮廷で大きな役割を果たさなかったようである。それでも、夫と叔父の同盟を結びつけるかすがいとなった。王妃として何通かの文書に署名しており、「フェネナ」などと記し、頭文字だけの例もある。1291年の印璽には、彼女がジェモミスウの娘であることが記されている。1292年に、一人娘のエルジェーベトを産んだ。1293年からは、アンドラーシュ3世がクヤヴィ諸公に送った文書に、プレンドチンの戦いでの勝利を助けるためハンガリー人の騎士を送ったことが記されている。
フェネンナの死については、ほとんど何も伝わらない。確認できる最後の署名は1295年9月8日の文書で、死去はこの年と考えられている。アンドラーシュ3世は、オーストリアの公女アグネスとの再婚を、翌1296年に行っている。1297年には、ヴワディスワフがハンガリー人の支援を受けて、ヴィエルコポルスカとシロンスクに遠征した。
フェネンナの死後、アンドラーシュ3世は、ヴワディスワフの敵であるヴァーツラフ2世と同盟した。1298年には、一人娘のエルジェーベトをヴァーツラフ2世の長男(のちのヴァーツラフ3世)と婚約させたが、実現しなかった。1301年にアンドラーシュ3世が亡くなると、エルジェーベトは継母アグネスのもとへ引き取られ、スイスのテスにあるドミニコ会の女子修道院に入れられた。ヴァーツラフ3世は1306年に暗殺されたとき、妃を離縁してエルジェーベトを新たな妃に迎えようとしていた。エルジェーベトは、アールパード家最後の末裔として1338年に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- オットーネ・ヴィスコンティ (1295年)
- ベアトリス・デ・ナバラ (ブルゴーニュ公妃) (1295年没)
- マルグリット・ド・プロヴァンス (1295年没)
- サンチョ4世 (カスティーリャ王) (1295年没)
- Rudolf II of Baden-Baden (1295年)
同じ地域に関係する人物
- ヨーカイ・モール (1904年没)
- フェイェール・リポート (1959年没)
- Istvan Nagy (1999年没)
- Dezso Wein (1944年没)
- エステルハージ・ペーテル (2016年没)