伝記
レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキーは、1879年10月26日(グレゴリオ暦11月7日)に生まれ、1940年8月21日に没した、ウクライナ生まれのソビエト連邦の政治家であり、ボリシェヴィキの革命家、思想家である。本名はレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテインという。トロツキーの姓は、最初の革命でオデッサに収監されていた当時の看守の名前が印象に残ったため、借用したものである。
ロシア帝国時代のウクライナ南部、ヘルソン県の小さな村ヤノフカで、父ダヴィードと母アンナの第5子として生まれた。両親はユダヤ系の富農であった。父は粘り強く企業家精神に富み、土地を買い込んで賃借りもし、大土地所有者となった。母はオデッサ近郊の町人階級の出身で、読書に励み、子どもたちに教養をつけさせようと努めた。9歳のとき、母の強い希望で、父は息子をオデッサに送り、ドイツ人学校に入れた。親類の援助で国費の有名校に入学できたが、ユダヤ人子弟の受け入れが制限されていた当時、これはかなり大変なことであった。在学中は、トルストイやシェイクスピアなどを大方読破した読書家だった。
ニコラーエフに移った1896年に、革命活動に関わり始めた。当初はナロードニキの立場で、マルクス主義に反対していたが、流刑と投獄の時期に徐々にマルクス主義者となっていく。1897年、数学の学位を追う代わりに、南ロシア労働者同盟の組織化を手伝って幹部として働き、小冊子を印刷して配布した。1898年1月に仲間200人とともに逮捕され、裁判を待つのに2年を費やし、懲役2年を受けてオデッサに収監された。獄中でアレクサンドラ・ソコロフスカヤと結婚し、哲学を勉強した。1900年にシベリアで4年の流刑の判決を受け、同地で2人の娘をもうけたが、1902年の夏にシベリアから逃亡した。
ロンドンに亡命して『イスクラ』を出していたロシア社会民主労働党に合流し、筆名「ペロ(ペン)」で頭角を現した。1902年後半にナタリア・セドワと出会って、1903年に結婚し、生涯連れ添った。1903年の社会民主労働党の第2回大会では、組織問題でレーニンと対立し、ボリシェヴィキではなくメンシェヴィキに所属した。以来1917年の十月革命の直前まで、ボリシェヴィキとほとんど絶縁状態となった。1905年の血の日曜日事件以後は、ロシアに帰国してサンクトペテルブルク・ソビエトの指導者となったが、12月に逮捕されて終身流刑を宣告され、護送中に脱走してウィーンに亡命した。第一次世界大戦が始まると、スイス、フランスと居を移し、戦争支持の社会主義政党を批判して、1915年のツィンメルワルト会議で反戦を訴えた。フランスから追放されると、ニューヨークに移った。
1917年に二月革命が起こると、ロシアへ帰国し、7月にボリシェヴィキに入党して、9月にペトログラード・ソビエト議長となった。十月革命では軍事革命委員会の委員長として軍事蜂起を指導し、要所を制圧して貢献した。外務人民委員に就任してブレスト=リトフスク条約の締結に関わり、「戦争もなく、講和もなく」との姿勢を取ったが、ドイツ軍が侵攻すると、レーニンに賛成して講和に踏み切った。1918年2月に軍事人民委員となり、赤軍の組織に着手して、内戦で白軍を撃破し、外国の干渉を排除する功績をあげた。1920年代に左翼反対派を結成して権力闘争に敗れ、共産党を除名された。メキシコに亡命して第四インターナショナルを結成し、1940年、スターリンの刺客ラモン・メルカデルによって同地で暗殺された。
同じ年に亡くなった人物
- イタロ・バルボ (1940年没)
- ミハイル・ブルガーコフ (1940年没)
- ネド・ナジ (1940年没)
- ヘルムート・ヴィック (1940年没)
- ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1906-1940) (1940年没)
同じ地域に関係する人物
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- フアン・デ・スマラガ (1548年没)
- フェリックス・マリア・スロアガ (1898年没)
- マルガリータ・ネルケン (1968年没)
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