伝記
フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルドは、1896年9月24日にミネソタ州セントポール市で生まれたアメリカの小説家である。一般には筆名のF・スコット・フィッツジェラルドとして知られる。両親はカトリックを信仰するアイルランド系で、父エドワードは家具工場を経営し、母メアリーはセントポールの著名な実業家の長女であった。名は、国歌の作詞者フランシス・スコット・キーが父方の遠縁にあたることに由来する。両親は彼が生まれる3か月前に二人の女児を流行病で失っており、一人息子として育てられた。1898年に家具工場が倒産し、父はP&G社のセールスマンとなって、一家はニューヨーク州バッファローに移った。仕事の都合で各地を転々としたため転校を繰り返したが、1908年に父が解雇されると、ミネソタ州に戻って祖母宅に同居した。地元のセントポール・アカデミーに入り、1909年から校内誌に作品を発表し始め、15歳のときに書いた脚本は演劇グループによって公演された。1913年にプリンストン大学に補欠入学し、終生の友人で、のちに編集者を務めるエドマンド・ウィルソンと出会った。1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦すると大学を中退し、陸軍に入隊した。
アラバマ州のキャンプ・シェリダンでの訓練中に小説『ロマンティック・エゴティスト』の執筆を始め、スクリブナーズ社に持ち込んだが、出版は認められなかった。戦争は1918年に終わり、内地勤務のまま陸軍を除隊した。訓練中にモントゴメリーのカントリー・クラブで出会ったゼルダ・セイヤーとはすぐに恋に落ち、1919年2月に除隊すると二人は婚約した。広告代理店でコピーライターとして働いたが、生活力に疑問を抱いたゼルダに婚約を解消され、7月に退職してセントポールの両親の家に戻った。そこで作品の推敲に心血を注ぎ、書き上げた原稿は再びスクリブナーズ社に送られて、価値を認められた。1920年3月に『楽園のこちら側』と改題されて出版されると、高く評価されるとともにベストセラーとなった。4月には、再び婚約していたゼルダとニューヨークで結婚し、1921年に娘のフランセスが生まれた。
1920年代は最も輝いた時期だった。1922年に2作目の長編を出し、1925年には3作目の長編『グレート・ギャツビー』が出版された。後世、この作品によって彼は「ジャズ・エイジ」の象徴としてのみならず、20世紀アメリカ文学全体を代表する作家の仲間入りを果たした。ところが発表当時は期待したほど売れず、落ち込んだという。この作品は1930年代には絶版になった時期すらあり、不動の評価を受けたのは、死後10年以上経ってからであった。ゼルダとの奔放な生活を満たすほどの収入は得られず、短編を書きまくり、小説の映画化権を売って稼いだが、生涯にわたって金銭的なトラブルに悩まされ、編集者のマクスウェル・パーキンスから原稿料を前借りしていた。
1930年にゼルダが統合失調症の発作を起こして精神病院で療養するようになり、1934年には、不安定な妻に翻弄され転落していく精神科医を描いた長編『夜はやさし』が出版されたが、恐慌下で売れ行きは芳しくなかった。絶望から彼はしだいにアルコールに溺れた。1930年代後半は、借金の返済と娘の学費を稼ぐため、シナリオライターとしてハリウッドに住んだ。最後の小説を執筆中の1940年12月21日、心臓発作を起こし、愛人シーラ・グレアムのアパートで死亡した。未完の最後の長編は、ウィルソンが整理して1941年に『ラスト・タイクーン』として出版した。
同じ年に亡くなった人物
- クリシュナ・ラージャ4世 (1940年没)
- ハロルド・ハームズワース (初代ロザミア子爵) (1940年没)
- アルフレッド・ロアジ (1940年没)
- ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1906-1940) (1940年没)
- アーサー・ハーデン (1940年没)
同じ地域に関係する人物
- アネット・ファニセロ (2013年没)
- サンドラ・ディー (2005年没)
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