伝記
エドマンドは、1245年1月16日にロンドンで生まれた、イングランド王ヘンリー3世と王妃エリナー・オブ・プロヴァンスの次男である。兄に王エドワード1世がいる。ヘンリーが二番目の息子を授かるよう祈った9世紀の殉教者、東アングリア王の聖エドマンドにちなんで名づけられ、2月3日までに洗礼を受けた。子ども時代の大半は、きょうだいとウィンザー城で過ごした。のちに初代ランカスター伯となり、ランカスター家の祖とみなされる。
1254年、ヘンリーは教皇インノケンティウス4世の申し出を受け、エドマンドをシチリア王にしようとした。シチリアを治めた皇帝フリードリヒ2世は1250年に亡くなっており、教皇は友好的な後継者を望んでいた。教皇はヘンリーに、エドマンドと軍をおくってフリードリヒの子マンフレーディからシチリアを取り戻し、費用と負債を合わせて13万5千ポンドまでを負担することを求めた。9歳のエドマンドは母とともに5月にガスコーニュへ渡り、10月3日にボルドーで大叔父のフランドル伯トマスにカプアの公位を与えて、12月に帰国した。1255年10月18日にはシチリアで儀式的な叙任を受け、ヘンリーは指輪を渡して彼を王と呼んだ。1257年4月には、ヘンリーはイタリア風の服を着せたエドマンドを議会で見せ、資金を求めた。ヘンリーが費用を出せなかったため、教皇は授与を取り消し、叔父のシャルル・ダンジューに与えた。この件はシモン・ド・モンフォールらの貴族の怒りを買い、1258年のオックスフォード条項で王の権力が抑えられる理由の一つになった。エドマンドは1263年にシチリア王位の放棄を宣言している。
1265年、イーヴシャムの戦いでモンフォールが敗死し、王の側が勝つと、エドマンドはモンフォールらの領地と称号を受けてレスター伯となった。敗れた貴族ロバート・ド・フェラーズの領地も得てダービー伯となり、1267年6月30日にはイングランド北西部ランカスター地域に広大な所領を与えられてランカスター伯となった。その所領はランカシャーからヨークシャー沿岸、南ウェールズからスコットランド国境にまで及んだ。1269年にアヴェリーヌ・ド・フォルスと結婚したが、子はなかった。1271年には兄エドワードとともに十字軍に加わり、服に縫いつけた十字架(クロス・バック)が訛って、猫背を意味する「クラウチバック」の異名になったという。
アヴェリーヌの死後、叔母マルグリット・ド・プロヴァンスの取り決めで、1276年にナヴァラ王妃だったブランシュ・ダルトワと再婚した。エドマンドは義理の娘ジャンヌが成年に達するまで、シャンパーニュを彼女の名で治めた。ブランシュとの間には3男1女が生まれた。エドワードのウェールズ攻略に従い、1277年と1282年に出征し、1286年から1289年の兄の不在中には摂政としてウェールズの反乱を鎮めた。
1293年、フランス王フィリップ4世が、ガスコーニュの領主としてエドワードをパリへ呼び出すと、エドマンドは交渉に送られた。ガスコーニュをフランスが40日間占領し、エドワードがフィリップの異母妹マルグリットと結婚するという合意を結んだが、40日が過ぎてもフィリップは返さず、二人は臣従の誓いを捨てて戦いに備えた。エドマンドは軍を率いてガスコーニュに渡りボルドーを包囲したが、兵に払う金がなく軍に去られ、バイヨンヌへ退いて病で死去した。1296年6月5日のことである。遺体はイングランドに運ばれ、1301年にウェストミンスター寺院に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- Konrad von Feuchtwangen (1296年)
- プシェミスウ2世 (ポーランド王) (1296年没)
- フロリス5世 (ホラント伯) (1296年没)
- カンパヌス (1296年没)
- Guillaume Durand (1296年)
同じ地域に関係する人物
- フランシスコ・レオン・デ・ラ・バーラ (1939年没)
- マリー・デュボア (2014年没)
- ジャン=ジャック・アンペール (1864年没)
- レオポルド・オドンネル (1867年没)
- ジャン・ラフィット (1826年没)