伝記
ラームカムヘーンは、タイのスコータイ王朝の第3代の君主である。スコータイを地方の一つのムアンから、広い領域を支配する大国へと発展させた王で、その業績からタイ史上最高の王、いわゆるタイ三大王の一人に数えられ、大王を意味するマハーラートの尊称で呼ばれる。建国者シー・インタラーティットの第三子として生まれた。民間の伝承には、実の両親は鬼女と漁師だったというものもある。若いころから武芸に達者で、碑文によれば、19歳のころ、チョート国の王クン・サームチョンがタークを攻めた戦いに従軍した。このとき戦象を駆って王との一騎討ちに勝ち、「ラーマのような強者」を意味するラームカムヘーンの名を与えられたという。別の説では、父がスコータイの町を奪った戦いでの勇敢さによって、この名を与えられたとされる。
父の没後は兄のバーンムアンが王位に就き、ラームカムヘーンは副王の地位でシー・サッチャナーライに赴任した。1279年ごろ、バーンムアンが没すると王位を継いだ。ある歴史家は、スコータイにサトウヤシの木を植えたこの1279年を、即位の年と考えている。治世の初めの大きな出来事は、王の娘の一人が、身分の低い宮廷護衛の隊長とともに駆け落ちしたことだった。この男はのちにワーレルーとして、西のペグー王朝を建て、ワーレルー法典の編纂を命じた。ラームカムヘーンはワーレルーを支援し、ワーレルーもスコータイへの臣従を誓ったため、西側の安全は保たれた。
1282年には元の使者何子志がスコータイを訪れ、元との外交関係が築かれた。1283年には、クメール文字を元にしたタイ文字を考案したと考えられている。近隣の国に対しては、同盟を結んで対立する国を中立化させる方針をとり、1287年には、北方のラーンナーのマンラーイ王やパヤオ王国のガムムアン王と同盟した。これによって北方の安全を固め、クメールや、パガン王朝に侵入した元からの攻撃に備えた。1292年にはスコータイから初めて返礼の使節団が元を訪れ、同じ年に、タイ語で記された最古の碑文であるラームカムヘーン大王碑文が作成された。碑文は、国民全体の生活に気を配ったと記し、商売の自由が認められ、故人の財産がすべて子に相続されたこと、被害を受けた国民が国王に直訴できたことを伝える。国民は王を「ポークン」、すなわち父と呼んだ。使節は1294年、1297年にも元へ送られ、1297年の使節団には王子ルータイが加わって、元の皇帝から衣服を賜った。
上座部仏教については、マレー半島を巡ったとき、ナコーンシータンマラートで、セイロン島から帰国した僧侶の説法に触れて信仰するようになった。その後、セイロンの使節団との往来があり、シヒン仏が贈られた。仏教の保護には、王権を強化する意図もあった。王の支配は、中心から離れるほど弱くなり、非タイ人の領主が治める地域は、貢納と兵の提供を条件に自治を認められていた。ラームカムヘーンは1298年に没したとされ、その後、従属下のムアンは別の強力なムアンを頼って次々に独立し、スコータイの勢力は縮小した。没後の1300年に元へ派遣された使節団は、中国から多数の陶工を連れ帰り、宋胡禄焼きの製造が始まった。碑文は1833年に即位前のラーマ4世が発見したが、19世紀の偽作とする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- ノガイ (1299年没)
- バイダル (1299年(推定))
- ダウマンタス (プスコフ公) (1299年没)
- ヤン1世 (ホラント伯) (1299年没)
- イブン・アダリ=アル=マラッキ (1299年没)
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