HISTORICAL PERSON · 1941年没

シャーウッド・アンダーソン

アメリカの作家。土着性とヨーロッパ的モダニズムの複合を試みた。フォークナーは彼を「我々の世代のあらゆる作家の父親」と評した。

生涯
1941年没
死亡地
パナマ共和国(コロン県 / コロン)
出生地
アメリカ合衆国(Camden)
出典
世界地図
パナマ共和国(コロン県)

伝記

シャーウッド・アンダーソンは、1876年9月13日にオハイオ州キャムデンで生まれたアメリカの作家で、短編の名手である。人口650人ほどの農村で、7人きょうだいの3番目に生まれた。父アーウィンは南北戦争の北軍の元兵士で馬具職人であり、同郷の人々からは将来を嘱望されていた。しかし生後1年を迎える前に一家は町を離れた。理由ははっきりしないが、父や叔父の借金の噂を挙げる伝記作者が多い。一家はカレドニアなどを経て、1884年にオハイオ州クライドに落ち着いた。父は酒量が増え、仕事も塗装工や壁紙貼りなど不定期なものに限られていき、母は洗濯の仕事で家計を支えた。この少年時代は、のちの半自伝的小説『タール』(1926年)に生かされた。

少年は家計を助けるため、新聞売り、使い走り、水汲みなど様々な仕事をして、「ジョビー」とあだ名された。成績はよかったが、働くうちに通学が減り、14歳で学校をやめた。蔵書の少ない家で、学校の図書館や知人の蔵書を借りて、貪るように本を読んだ。1895年に母が結核で亡くなると、ほとんど一人きりになり、馬小屋の一室に寝泊まりして働いた。この経験は、彼の有名な物語にいくつか現れる。この年の3月、母の死の2か月前に、彼はオハイオ州兵に入隊し、自転車工場で安定した職に就いて、バーサ・ベインズという女性と交際していたが、母の死をきっかけにクライドを離れた。小さな町の工場を転々としたのち、1896年末から翌年にかけてシカゴへ出た。シカゴでは先に出ていた兄カールと暮らし、冷蔵倉庫で働いて、苦しい生活を送った。商才にも恵まれ、のちには広告の世界でも成功を収めた。

1908年に塗装会社を設立して事業を始めたが、1912年11月、執務中に突然会社から姿を消し、4日後に朦朧状態で発見されるという謎の失踪事件を起こした。翌年、妻子を置いて単身シカゴに移り、セオドア・ドライサーらの知遇を得て、執筆活動を始めた。1919年、オハイオ州の小さな田舎町を舞台にした短編集『ワインズバーグ・オハイオ』が評判を呼び、一躍有名作家となった。日本でも1933年から複数の翻訳が出ており、2018年には上岡伸雄による新訳も刊行された。収録作の「手」は、多くの短編集に訳されている。この作品のヒロインのモデルは、若い頃に交際したバーサ・ベインズかもしれないとされる。

その後も『貧乏白人』(1920年)、『卵の勝利』(1921年)、『多くの結婚』(1923年)、『馬と人間』(1923年)、『暗い笑い』(1925年)、『森の中の死』(1933年)などを発表し続けた。詩集『中西部アメリカの聖歌』(1918年)や『新しい聖約』(1927年)のほか、ノンフィクションの『混迷するアメリカ』(1935年)も著している。私生活では結婚と離婚を繰り返した。ウィリアム・フォークナーは彼を「我々の世代のあらゆる作家の父親である」と評した。ヘミングウェイ、スタインベック、トーマス・ウルフ、カーヴァーらも文章の影響を受けたとされる。

1941年、南アメリカへの旅行中に腹膜炎にかかり、3月8日にパナマのコロンで亡くなった。誤って飲み込んだ爪楊枝が内臓を傷つけたことが原因だという。

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