伝記
ヴィルヘルム2世は、1859年1月27日にベルリンで生まれた第9代プロイセン国王、第3代ドイツ皇帝で、史上最後のドイツ君主である。プロイセン王子フリードリヒ(のちのフリードリヒ3世)と、英国女王ヴィクトリアの長女ヴィクトリアの長男であった。難産の逆子で、後遺症のため左半身に障害があり、平衡感覚にも難があったという。ホーエンツォレルン家の伝統の名のほか、祖母の英女王とその夫の名を受けて、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトール・アルベルトと名づけられ、ポツダムの宮殿で育てられた。幼い頃から負けん気が強く、海にも興味を示した。カルヴァン派の博士が教育係となり、厳格な教育を受けた。知的な母はヴィルヘルムに多くを要求して評価が低く、障害をひそかに嫌っていたともいわれ、これが母とイギリスへの憎悪につながったといわれる。
10歳の誕生日に軍に入って少尉に任官され、ポツダムの近衛将校団に囲まれて、プロイセンの軍国主義に深く心酔していった。自由主義的な父は、後継者に公平無私になってほしいと、息子を普通の児童の通う小学校に入れ、のちカッセルのギムナジウムに進ませた。教育は朝5時から夜10時まで続く過密なもので、1877年に10位の成績で卒業し、英語とフランス語を自由に扱い、ギリシア語の古典もよく読んだ。母子の関係は悪化の一途をたどり、ビスマルクもこの争いを「ドイツの真の継承者」対「イギリス女」として煽った。祖父ヴィルヘルム1世は保守的な孫を可愛がり、孫も父ではなく祖父を模範に育った。18歳で成人して黒鷲勲章を受け、ボン大学で国際法、哲学、文学、経済学などを2年学んだ。
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公女アウグステ・ヴィクトリアとの結婚を望み、反対を押し切って、1880年に婚姻が成立し、翌年に挙式した。二人の間には7人の子が生まれた。1888年3月に祖父が91歳で亡くなり、父がフリードリヒ3世として即位したが、不治の病にかかっており、6月15日に在位99日で崩御した。ヴィルヘルムは29歳で皇帝となり、親政を決意した。当時のドイツ皇帝位は「世界で最も力のある玉座」とも評された。父の崩御を知るとポツダムの宮殿を軍隊で包囲し、母を一時的に幽閉した。父が自分を批判する日記をつけていたためという。
祖父の治世で長く宰相を務めたビスマルクを辞職させて親政を始め、治世の前期には労働者保護など社会政策に力を入れ、社会主義者鎮圧法も延長せずに廃止した。しかしのちに保守化を強め、社会政策にも消極的になっていった。1908年のデイリー・テレグラフ事件以降は政治的権力を大きく落とした。外交では一貫して帝国主義政策を進め、海軍力を増強して新たな植民地の獲得を狙ったが、イギリスやフランス、ロシアなどと対立を深め、最終的に第一次世界大戦を招いた。4年以上にわたる総力戦のなか、1916年にヒンデンブルクとルーデンドルフによる軍部独裁体制が成立すると、ほとんど実権を失った。
大戦末期、国民の不満が高まってドイツ革命が起こった。立憲君主制への憲法改正で革命を鎮めようとしたが収まらず、1918年11月9日にオランダへ亡命して退位した。ドイツは共和制へ移行し、ホーエンツォレルン家の統治は終わった。戦後はオランダのドールンで暮らし、帝政復古派の運動を支援したが、復位の可能性は、ヒトラーの独裁体制が成立して消えた。独ソ戦を目前にした1941年6月4日、ドールンで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ゴットフリート・フェーダー (1941年没)
- ハリー・M・ドアティ (1941年没)
- イオアニス・メタクサス (1941年没)
- ロドルフォ・アモエド (1941年没)
- ドミトリー・パヴロヴィチ (1941年没)
同じ地域に関係する人物
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- アウグステ・ヴィクトリア・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=アウグステンブルク (1921年没)
- エルス・ボルスト (2014年没)
- ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝) (1125年没)
- ヘンリー・ヴィンケルマン (1952年没)