伝記
イグナツィ・ヤン・パデレフスキは、1860年11月18日、現在はウクライナ領となっているポドリア地方の寒村に生まれた。父はポーランド貴族のシュラフタで、自宅の屋敷で経済学者として働いていた。生母は彼を産んで数か月後に亡くなり、遠い親族に育てられた。幼いころから音楽に興味を示し、初めは個人教師についてピアノを学んだ。1872年、12歳でワルシャワ音楽院に進み、和声学とピアノを学んだが、ピアノ教師には恵まれず、「あなたはピアノを弾くのに適した手をしていない」と言われたことがあると後年の自伝に記している。1878年に卒業し、母校のピアノ科の教師を頼まれて引き受けた。1880年にアントニナ・コルサクヴナと結婚し、まもなく長男アルフレトが生まれた。
翌年、長男の障害が判明し、10月には夫人も亡くなった。パデレフスキは音楽に身を捧げる決心をして、1881年にベルリンに留学し、作曲を師事した。1884年にウィーンに移り、ウィーン音楽院でレシェティツキに入門した。1885年から1886年までシュトラスブルク音楽院で教え、1887年にウィーンでデビューした。1889年のパリ、1890年のロンドンでの演奏は大成功を収め、1891年にはアメリカ合衆国でも成功が繰り返された。万全の技術を保つには忍耐が要ると述べた、「一日練習を怠ると自分には分かる。二日怠ると批評家に分かる。三日怠ると聴衆に分かってしまう」という言葉は、多くの人に記憶されている。
1899年に男爵未亡人ヘレナ・グルスカと結婚し、1900年以降は人前で演奏することがほとんどなくなった。代わって、主にピアノ曲の作曲家として知られるようになった。1901年にはオペラ『マンル』がドレスデンで上演され、1908年には70分を超える大作の交響曲ロ短調『ポーランド』を作曲した。夫妻で社会事業や寄付活動にも取り組み、1910年には、ドイツ騎士団に対するポーランドの勝利の500周年を記念して、古都クラクフの住民に記念碑を贈り、ショパン生誕100周年の記念碑も建てた。1913年にはアメリカに居を構え、ブドウ畑を持ってワイン製造も手がけた。
第一次世界大戦中はパリのポーランド民族委員会の活動家となり、そのスポークスマンとして、ロンドンにポーランド回復基金などの組織も立ち上げた。1918年12月27日にはポズナニを訪れ、演説で住民にドイツに対する武装蜂起を呼びかけた。1919年1月から11月まで、新生ポーランドの首相と外務大臣を兼ね、ポーランド代表としてパリ講和会議に出席した。その後は国際連盟のポーランド大使を務めた。1922年に政界を引退して演奏活動に復帰し、長い中断を経た最初の演奏会はカーネギー・ホールで開かれ、目覚ましい成功を収めた。のちスイスのモルジュに移った。1926年のピウスツキによるクーデターの後は、体制に反対する活動家となった。
1939年のポーランド戦役の後、高齢の身で国政に復帰し、1940年にはロンドンの亡命政府の国家評議会の指導者となった。ポーランド回復基金を再び発足させ、財源のため各地で演奏した。その旅の最中の1941年6月29日、ニューヨークで客死した。亡骸はアーリントン国立墓地に葬られたが、1992年に遺灰がワルシャワに持ち帰られ、ヴァウェンサ大統領らが列席して聖ヨハネ聖堂の地下霊廟に埋葬された。「パデレフスキのメヌエット」として知られる6つの演奏会用ユモレスクの第1曲は、今もピアノ発表会などで人気がある。
同じ年に亡くなった人物
- アルフレート・ヘットナー (1941年没)
- ギリェルモ・カーロ (1941年没)
- トーマス・フィリップス (1941年没)
- フレッド・モロニー (1941年没)
- ヴェルナー・メルダース (1941年没)
同じ地域に関係する人物
- フランシス・ルイス (1803年没)
- ヘレン・メンケン (1966年没)
- ジョン・ローブリング (1869年没)
- アブラハム・ヨシュア・ヘッシェル (1972年没)
- デイヴィッド・リースマン (2002年没)