伝記
エル・リシツキーは、1890年11月23日、スモレンスクの南東約50キロメートルにあるユダヤ人の小さな共同体ポチノクに生まれたロシア出身のグラフィックデザイナー、建築家、写真家である。本名はラーザリ・マールコヴィチ・リシツキーという。幼いころはヴィテプスクで暮らして学び、のちに祖父母とスモレンスクで10年を過ごして、そこの学校に通った。絵に早くから才能を示し、13歳で地元のユダヤ人画家イェフダ・ペンのもとで学び始めた。15歳ごろには自分でも絵を教え始め、この活動は生涯続いた。
1909年、ペテルブルクの美術学校を受験して試験には合格したが、帝政時代の法律がユダヤ人学生の入学を少数に限っていたため入学できなかった。多くのロシアのユダヤ人と同じくドイツに渡り、1909年にダルムシュタット工科大学の土木工学科に入った。1912年の夏には「ヨーロッパをさまよい」、パリに滞在し、イタリアを1,200キロメートル歩いて回って、美術作品を見ながら建築や風景のスケッチをした。パリでは幼なじみの彫刻家ザッキンが率いるロシア系ユダヤ人のグループと接し、これが古いユダヤ文化への関心の出発点になったという。同じ1912年にペテルブルクの芸術家同盟が催した展覧会に、作品が初めて出品された。ドイツには第一次世界大戦の勃発まで滞在し、スイスとバルカンを通って帰国した。
モスクワに戻ると、建築事務所で働きながらリガ工科大学の分校にも通い、1918年6月3日に建築技師の資格を得た。このころ、帝政の崩壊後に復興していたユダヤ文化に熱心に関わり、地元のユダヤ人芸術家の展覧会に協力し、古いシナゴーグの建築と装飾を研究し、イディッシュ語の児童書を数多く挿絵した。これがグラフィックデザインへの最初の一歩であった。1917年の本では、ヘブライ文字にアール・ヌーヴォーの趣を与えている。
マレーヴィチとともに前衛芸術家の集団を指導し、シュプレマティスムの独自の発展形として「プロウン」を考案した。「新しいものの確立のプロジェクト」を意味し、1919年から1921年にかけて制作された一連のシリーズは、形態と構成の建築的な実験モデルとして知られる。1921年にはロシアの文化大使としてドイツへ渡り、バウハウスやデ・ステイルの人びとに影響を与えた。1923年には国家主導で、プロパガンダのためのフォトモンタージュ研究所をモスクワに設立した。1924年から翌年にかけて、モスクワ中心街を計画地にしたオフィスビル群「雲の鐙」を発表している。1920年代の活動は主に西ヨーロッパとドイツで、目的はソヴィエト・ロシアの芸術運動と政治状況を諸外国に伝えることだった。1928年にケルンで開かれた国際報道展でのソヴィエト館の設計は秀逸で、各国のメディアを大きく揺さぶった。詩人マヤコフスキーと共同編集した詩集『声のために』は、インデックスの仕組みを採用した、おそらく世界初の書籍である。
1930年に創刊されたソ連の対外宣伝グラフ雑誌『建設のソ連邦』は、露英独仏西の5か国語で刊行された。リシツキーは1932年から、死の前年の1940年まで、同誌の一部の号のデザインを手がけた。最期まで仕事を続け、1941年には、ドイツとの戦争に向けた戦車製造を呼びかけるプロパガンダのポスターを手がけたのが最後の作品の一つとされる。同年12月30日にモスクワで没した。その仕事はタイポグラフィ、フォトモンタージュ、展示デザインなどに革新をもたらしたといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- 岡見京 (1941年没)
- Carrie Matilda Derick (1941年没)
- ガエターノ・モスカ (1941年没)
- チャールズ・ボイジー (1941年没)
- フランク・ウォーラー (1941年没)
同じ地域に関係する人物
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- イヴァン・ペトロフスキー (1973年没)
- Alexander Veltman (1870年没)
- ミハイル・ロンム (1971年没)