伝記
マリコス1世は、紀元前59年または58年ごろから紀元前30年まで在位したナバテア王国の王である。ローマが勢力を広げ、その内部も大きく揺れていた時代に、30年近くにわたって王位にあった。治世の初期を伝える記録は乏しく、後期については主にローマの歴史家の記述が頼りになる。一方、最後の3年間に自ら鋳造させた貨幣とナバテア語の碑文のおかげで、肖像やナバテア文化の一端、在位年は比較的よく分かっている。名は「王」を意味するセム語の共通語根mlkに由来し、古代のいくつもの王や神の名、尊称にも現れる。ナバテアの王としてこの名を名乗ったのは彼が最初である。マリコスはギリシア語形のローマ字転写で、ヨセフスは彼を「アラビア人の王マリコス」と記している。
即位年は、エジプトのテル・エシュ・シュカフィーヤで見つかったナバテア語碑文から割り出された。ワフブアラヒという人物が神ドゥシャレスに捧げたこの碑文には、マリコスの治世26年がクレオパトラ7世の治世18年と並べて記されている。クレオパトラの18年は紀元前35年から34年にあたるため、マリコスの即位は紀元前59年か58年になる。この碑文は、マリコスの前任でアレタス3世の後継とされる短命の王オボダス2世の存在を裏づける材料にもなった。ユリウス・カエサルは『アレクサンドリア戦記』で、エジプトでの戦いのためにナバテア王マリコスへ騎兵の提供を求めたことに簡単に触れている。
当時のナバテアは、ユダヤと周辺のパレスチナ、さらにアラビアの支配をめざすローマ有力者たちの争いのただ中にあった。歴史家のグレン・バワーソックは、マリコスがこの時代の数々の外交上の駆け引きをある程度うまくさばいたと述べている。マリコスはヘロデ大王の従兄弟だった可能性がある。ヘロデの母キュプロスはナバテアの王女で、イドマヤ人アンティパトロスの妻だったからである。紀元前40年、ヘロデはハスモン家のアンティゴノスによる投獄を逃れてユダヤを去り、まずマリコスの宮廷を訪れた。しかしマリコスは政治的にパルティアと結んでおり、パルティアはヘロデを敵対するローマの従属的な統治者と見ていたため、ヘロデを追い返した。ヘロデはやむなくアレクサンドリアのクレオパトラ7世のもとに身を寄せた。
やがてマリコスは、そのクレオパトラと対立する。ローマの三頭政治家で恋人のマルクス・アントニウスが、紅海のアカバ湾沿いのナバテア領をクレオパトラに与えたからである。この一帯は、ナバテア人がプトレマイオス朝領を襲う際の拠点として長く使われていた。両者は激しく争い、それはクレオパトラの攻撃的な行動が火をつけたともいわれる。その結果、紀元前31年のアクティウムの海戦では、マリコスはヘロデとともにアントニウスとクレオパトラを支援しに現れなかった。この戦いはライバルのオクタウィアヌスの決定的な勝利に終わった。マリコスはクレオパトラが自ら命を絶ったとみられる直後の紀元前30年に死んだらしく、後継者はオボダス3世であった。
在位の最後の3年間に、ナバテアの王として貨幣を整然と鋳造する制度が整えられた。この制度は、紀元後106年にナバテア王国がローマに併合されるまで続いた。貨幣は銀と青銅で、銀貨は2分の1シェケルと4分の1シェケルの2種類だった。ナバテア・アラム語で「王マリコス、ナバテアの王」と刻まれ、治世年がギリシア文字で添えられた。表面には巻き毛に王冠を戴いた王の肖像があり、裏面には鷲が描かれ、4分の1シェケルにはさらに椰子の枝が加わる。
同じ年に亡くなった人物
- カッシウェラウヌス (紀元前 29年)
- マルクス・アントニウス・アンテュッルス (紀元前29)
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