伝記
テオドラ・パレオロギナは、ビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴスの皇后である。テオドラ・ドゥカイナ・コムニニ・パレオロギナ、またテオドラ・ヴァタツァイナとも呼ばれる。父はヨハネス・ドゥーカス、母はエウドキア・アンゲリナである。父方の祖父は、ニカイア皇帝ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスの兄のイサキオス・ドゥーカス・ヴァタツェス(1261年没)である。母方の祖父は、プロトストラトルのヨハネス・アンゲロスで、アンゲロス家の一員とみられるが、皇帝家との正確な関係は分かっていない。
歴史家アクロポリテスによれば、テオドラの父は若くして亡くなり、母も1250年代の初めに世を去った。テオドラは大叔父のヨハネス3世に育てられ、ヨハネス3世は実の娘のように愛したといわれる。1253年、ヨハネス3世は彼女を、家柄と軍事の才によって次第に頭角を現していたミカエル・パレオロゴスと結婚させた。1254年11月3日にヨハネス3世が没して、一人息子のテオドロス2世ラスカリスが跡を継いだが、4年後に亡くなり、7歳の子ヨハネス4世ラスカリスが残された。ミカエルは摂政となり、さらに専制公へ進んで、1259年の初めにヨハネス4世とともに共同皇帝として戴冠した。このときテオドラが皇后として戴冠したかどうかははっきりしない。
1261年7月25日、将軍アレクシオス・ストラテゴプロスが、第4回十字軍で荒廃した帝都コンスタンティノープルを奪回した。ミカエルは8月15日に入城し、テオドラと子どもたちもまもなく続いた。9月にはハギア・ソフィア大聖堂でミカエルが再び戴冠した。このころ、テオドラは結婚の危機に直面する。歴史家パキュメレスによれば、ミカエルはかつてヨハネス・ヴァタツェスの短い結婚相手だったアンナ・コンスタンツェ・フォン・ホーエンシュタウフェンに心を奪われ、テオドラが身を引くなら自分は彼女と結婚すると申し出た。これを知ったテオドラが総主教アルセニオスに助けを求めると、総主教は皇帝に迫って計画を断念させた。ミカエルは折れ、アンナは12月に故郷へ帰った。
テオドラの政治的な役割を示す証拠は乏しい。娘のアンナとイレーネの結婚に関心を寄せ、失脚した廷臣の寛大な処置を求めて動くこともあった。主な活動は修道院の支援で、1259年から1281年にかけてパトモスやレンビオティッサの修道院の文書に、その関与が記されている。1274年の第2リヨン公会議で、ミカエルが教会の合同を進めたとき、テオドラは初め合同に反対する側に同情した。夫を説得できずに、夫への忠誠から合同を支持したとみられる。学問も支え、コンスタンティノープル奪回の直後には、修道士アルセニオスにペルシアの哲学者ザナティの幾何学の書をギリシア語に訳させた。
ミカエルが1282年に没した翌1283年、テオドラは合同支持を公の場で撤回するよう強いられた。夫の死後のある時期には、10世紀創建のリプス修道院の修復に取りかかり、女子修道院を併設して、洗礼者ヨハネに捧げた第2の聖堂を加えている。娘や孫娘が老後を過ごす場所を用意すること、また、キリスト教式の埋葬を拒まれた夫の姿を見て、一族の安らぐ場を用意することが動機とされる。テオドラは短い病ののち、3月4日に没した。没年は1303年とも、1304年ともされる。息子の皇帝アンドロニコス2世が盛大な葬儀を営み、テオドラは自ら準備しておいたリプス修道院の洗礼者ヨハネ聖堂に葬られた。弔辞を述べたのはテオドロス・メトキテスである。ミカエルとの間には7人の子が生まれた。
同じ年に亡くなった人物
- アラーウッディーン・カイクバード3世 (1303年)
- ステパノス・オルベリャン (1303年没)
- ラーニー・パドミニー (1303年)
- イヴァン・アセン3世 (1303年没)
- ダニール・アレクサンドロヴィチ (1303年没)
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