伝記
アンドレイ・アレクサンドロヴィチは、1255年頃に生まれたルーシの公で、アレクサンドル・ネフスキーの三男である。母はポロツク公女アレクサンドラ。父からヴォルガ川沿いのゴロジェッツを所領として与えられ、1276年にはコストロマも加えて、ウラジーミル大公位をめぐる争いに加わった。1277年にはカフカースのタタールに向けて遠征している。
大公位をめぐる相手は、ペレヤスラヴリ公だった兄のドミトリー・アレクサンドロヴィチだった。1281年、アンドレイはモンゴル軍に加わり、ドミトリーをウラジーミルから追い出した。モンゴル軍はスズダリ、ウラジーミル、ムロムの地をトルジョークに至るまで荒らし、多くの人が捕らえられ、あるいは殺されたと伝えられる。ウラジーミルでモンゴル人と宴を開いたのち、ノヴゴロドへ向かい、住民から熱烈に迎えられた。しかしこの間にドミトリーは有力なモンゴルの将軍ノガイと結び、1283年、ノガイの後押しでウラジーミル大公に復位した。金帳汗国のハンであるトデ・モンケはアンドレイを支持していたが、流れは変わらなかった。アンドレイは兄に従う姿勢を見せ、ゴロジェッツへ戻ったとされる。
その後もアンドレイは、タタールをそそのかして味方につけ、兄と戦うことが多かった。1281年、1285年、1293年がその例に数えられる。ゴロジェッツに戻ったアンドレイはタタールの王子を呼び寄せたとされ、これに対してドミトリーは諸公を集めてゴロジェッツを攻め、王子を追い払い、アンドレイの側近の貴族たちを捕らえた。やがてアンドレイはヤロスラヴリ公フョードルとともに、ノガイのもとへ赴いたという。そして1293年、金帳汗国のハンの弟とされるジュデンが率いるモンゴル軍とともにルーシに攻め入った。いわゆるジュデンの侵攻である。
この遠征で、ロシアとタタールの連合軍は14の町を荒らし、ドミトリーはプスコフへ逃れた。連合軍はトヴェリを狙ったが、トヴェリ公ミハイル・ヤロスラヴィチが間に合って戻っていたため、計画を取りやめた。代わりに、ウラジーミル・スズダリ地方の町々を荒らしたうえでヴォロコラムスクを奪った。ノヴゴロド人は贈り物でタタールを買収して立ち去らせ、アンドレイに公となるよう求めた。アンドレイはこれに満足し、タタール軍は引き上げた。アンドレイの本拠ゴロジェッツと、ロストフ公たちの北の町々は、この遠征の被害を受けなかった。
追い詰められたドミトリーは、大公位を手放して、ペレヤスラヴリだけを求めたとされる。アンドレイもこれを約束したが、ドミトリーはペレヤスラヴリへ向かう途中で病に倒れ、ヴォロクの近くで亡くなった。1294年、アンドレイはロストフ公ドミトリー・ボリソヴィチの娘ヴァシリサと結婚し、ウラジーミル大公位を確保した。大公となってもゴロジェッツに住み続けたという。晩年の約10年は、モスクワ公ダニイル、トヴェリ公ミハイル、ドミトリーの子でペレヤスラヴリ公のイヴァンらが結んだ同盟との争いに費やされた。1301年には、現在のサンクトペテルブルク近くのランツクローナからスウェーデン人を追い払っている。アンドレイは1304年7月27日に没した。三人の息子は父より早く亡くなっており、大公位は従兄弟のトヴェリ公ミハイル・ヤロスラヴィチに移った。
同じ年に亡くなった人物
- マティルデ・フォン・ハプスブルク (1304年没)
- ベネディクトゥス11世 (ローマ教皇) (1304年没)
- 後深草天皇 (1304年没)
- バルトロメオ1世・デッラ・スカラ (1304年没)
- ジャン・ド・マン (1304年)
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