HISTORICAL PERSON · 1942年没

カールリス・ウルマニス

ラトビアの政治家。1918年の独立から1940年まで独裁者として大きな影響力を発揮した。その治世への評価は、国内でも今なお賛否が分かれる。

生涯
1942年没
死亡地
トルクメニスタン(バルカン州 / トルクメンバシ)
出生地
ラトビア共和国(Berze)
出典
世界地図
トルクメニスタン(バルカン州)

伝記

カールリス・アウグスツ・ヴィルヘルムス・ウルマニスは、1877年9月4日に生まれたラトビアの政治家である。富農の家に生まれ、スイス連邦工科大学チューリッヒ校とライプツィヒ大学で農学を学んだ。ラトビアに戻ってからは記者、教師、農場の管理人として働いた。1905年の革命に参加してプスコフで短期間投獄され、ロシア帝国当局によるさらなる処罰を避けるため、まもなく国外へ亡命した。亡命中はアメリカ合衆国のネブラスカ大学リンカーン校で農学を修め、科学の博士号を取得した。短期間同校で講師を務めた後、テキサス州ヒューストンで事業を買い取って経営した。1913年、ニコライ2世が政治犯に大赦を与えたとの報を受けて、8年ぶりにラトビアへ帰還した。しかし翌年に第一次世界大戦が勃発し、クールラント県は部分的にドイツ軍の占領下に置かれた。

大戦も終盤にさしかかったころ、政党「ラトビア農民連合」を組織した。農民連合はたちまちラトビアを二分する大政党となり、国会の創設に深く関与した。1918年11月18日、国会はウルマニスを初代首相としてラトビア共和国の独立を宣言した。1919年から1920年の独立戦争に勝利した後、制憲協議会が開かれ、ラトビアは議会共和制を確立した。彼は1918年から1934年の間に組織された内閣で、数次にわたって首相を務めた。1934年5月15日深夜、首相だった彼は、陸軍大臣ヤーニス・バルオディスの協力を得て戦時体制を宣言し、すべての政党を解散して国会の機能を停止した。国境警備隊と陸軍は無血のうちに中央省庁と放送局、輸送機関を掌握し、国会議員をはじめ2000名の社会民主主義者が最初に逮捕され、続いて極右や極左の活動家らも逮捕された。大統領クヴィエスィスはクーデターに協力し、1936年4月に任期を終えると、ウルマニスに大統領の座を譲った。この政権委譲は違憲であったと考えられている。

統治は他の欧州諸国の独裁とは性格が異なり、支配政党や傀儡の国会、新しいイデオロギーの建設を試みなかった。ウルマニスがラトビアに必要と信じることを忠実に実行する家父長的な権威主義であり、自らの農民連合を含めて政党は例外なく非合法化された。「ラトビア人のためのラトビア」という標語を信奉して、ドイツ系やユダヤ系の経済的影響力を抑える政策をとり、教育を重んじて識字率を高めた。一方で、「ラトビアの太陽は万民を照らす」という標語も使い、少数民族に対する暴力や迫害は許さなかったとされる。産業を強く指導する経済政策のもと、世界恐慌の時代にも経済成長を続けた。ただし、その代償として自由や市民権への制約を伴った。

1939年8月23日にナチス・ドイツとソ連が不可侵条約に署名すると、秘密議定書でラトビアはソ連の勢力圏に置かれた。同年10月、ソ連の最後通牒でウルマニスは相互援助協定への署名を余儀なくされ、ソ連の基地が国内に置かれることになった。1940年にはラトビアは完全にソ連の占領下に置かれ、彼は全軍に赤軍への抵抗を控えるよう命じ、ラジオで国民に動揺しないよう呼びかけた。7月21日に辞職を強制され、スイスへの亡命を願い出たが、当局の回答は逮捕と強制送還であった。独ソ戦が勃発すると再び逮捕され、移送の途中で赤痢にかかり、1942年9月20日に死去した。墓の場所は定かでない。妻子はなく、「ラトビアと結婚した」と語っていたという。その評価は今も分かれ、独立の象徴とみる声がある一方、民主主義を停止した点を否定的に見る歴史家もいる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物