伝記
ブルーノ・シュルツは、1892年7月12日に生まれ、1942年11月19日に没したポーランドのユダヤ系の作家であり、画家である。ホロコーストの犠牲者でもある。ヴィトルド・ゴンブローヴィチ、スタニスワフ・イグナツィ・ヴィトキェヴィチとともに、戦間期ポーランドで異彩を放った作家の一人として再評価され、その作品は世界十数か国で翻訳されている。日本では、工藤幸雄による1967年の初訳以来、改訳や増補を経て、1998年に世界初の『全集』が出版された。
ポーランド東南部ガリツィア地方の小都市ドロホビチ(現在のウクライナ領)で、布地商を営むヤクブ・シュルツとヘンリエッタ・ヘンデルの間に生まれた。終生この街を離れることなく、50年あまりの生涯の間、オーストリア・ハンガリー帝国、ポーランド、ソビエト連邦、ナチス・ドイツと、占領国が目まぐるしく変わる街と運命をともにした。ギムナジウム卒業後、画業を目指したが、家族の反対を受け、リヴィウの工科大学に進んで建築を専攻した。病気のために休学した。1914年に第一次世界大戦が勃発すると、姉や甥とともにウィーンに疎開し、1918年まで断続的に滞在した。1915年6月23日に父が死去したとき、彼は難民としてウィーンにいて、死には立ち会っていない。
1918年に帰郷すると、美術グループ「カレイア」に参加した。クラクフのヤギェロン大学の学生ヴワディスワフ・リフとの交流から執筆を始め、ザコパネでヴィトキェーヴィチのもとで知り合ったデボラ・フォーゲルとの文通から、『肉桂色の店』の原型が生まれたとされる。1924年から契約教師として、ドロホビチのギムナジウムで美術を教えた。兄のイジドゥルはルヴフの石油会社の役員だったが、1935年に心臓病で急逝し、その後は一家の大黒柱として、精神病を抱えた姉の家族を支えなければならなくなった。1933年に兄の金銭的援助で出版した短編集『肉桂色の店』は、一部の作家から高い評価を得たものの、家計の足しにはならなかった。そのため終生、教員の職との二足の草鞋で作家生活を続けた。1937年には第2の短編集『砂時計サナトリウム』を出した。生前に出版した作品はこの2冊の短編集と、雑誌に単発で発表した4編の短編にとどまる。いずれも主に幼少時の身辺に取材し、小都市の一家庭とその周辺という、極めて狭い世界を描いた。
作品では、人間と人形、人工と自然、生者と死者といった二項対立を反転させ、溶解させる手法を得意とした。主要なモチーフの一つが「父の変身」で、主人公の父ヤクブが、ゴキブリや鳥などに変身を繰り返す。画家としては、版画集『偶像讃美の書』に、独学で会得したクリシェ・ヴェールという写真版画技法を用いた。1936年にはカフカの『審判』のポーランド語訳を出版したが、実際に翻訳を行ったのは婚約者のユゼフィーナ・シェリンスカであった。
1941年、ドロホビチがナチスに占領され、ユダヤ人たちがゲットーに追いやられると、住み慣れた住居を離れてゲットーに移った。その際、原稿やドローイングをゲットー外の知人に託したことが知られる。オーストリア出身のゲシュタポ将校フェリックス・ランダウに、お抱えの画家として雇われ、その子供部屋に壁画を描いた。1942年、パンの配給を受け取りに行く途中で、ゲシュタポが「野蛮作戦」と名づけた無差別なユダヤ人殺戮に遭遇し、ゲシュタポの一人に路上で射殺された。2001年にはドキュメンタリー映画を作成中の映像作家が、かつてランダウが住んだ住居で、この壁画を発見した。
同じ年に亡くなった人物
- セシリア・ボー (1942年没)
- ヤコブ・ペレルマン (1942年没)
- オットー・ヘルシュマン (1942年没)
- アウグスティナス・ヴォルデマラス (1942年没)
- マリー=アンヌ・ド・ポルテュガル (1942年没)
同じ地域に関係する人物
- ベネディクト・ディボフスキィ (1930年没)
- オレクサ・ノヴァキフスキー (1935年没)
- タデウシ・ジェレニスキー (1941年没)
- ヴァシル・バルヴィンスキー (1963年没)
- Myroslav Ivan Lubachivsky (2000年没)