伝記
アントン・ドレクスラーは、1884年6月13日にミュンヘンで、鉄道労働者の息子として生まれたドイツの労働者であり政治家である。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の前身であるドイツ労働者党の共同設立者として知られる。国民学校を卒業すると、1901年にベルリンに上ったが、失業して帰郷し、1902年から機械工として働き始めた。ベルリンでは工具工や錠前工をしていたともいう。収入に不満で、副収入のためレストランでツィターを弾いたとも伝わる。この頃にはすでに反ユダヤ主義、反マルクス主義的な思想を身に付けていたとされる。第一次世界大戦では、体が兵役に適さないとされ、従軍しなかった。
大戦中にドイツ祖国党に参加し、1918年3月には、職場のバイエルン王国王立鉄道中央工場の同僚とともに、「良き和平のための自由労働者委員会」を組織した。また、ジャーナリストでトゥーレ協会の会員だったカール・ハラーとともに、保守的な民族主義団体を設立した。敗戦後の1919年1月5日、ディートリヒ・エッカート、ゴットフリート・フェーダー、ハラーらとドイツ労働者党(DAP)を設立した。ハラーが党議長に就いたが名誉職にすぎず、実質的な権限は副議長のドレクスラーが握っていた。同月には論文を発表し、さらに「我が政治的目覚め」と題するパンフレットを出したが、これは復員してミュンヘンにいたアドルフ・ヒトラーに影響を与えたという。
1919年9月、ミュンヘンの集会で、演説した教授を論破したヒトラーを見て興味を抱いたドレクスラーは、党のパンフレットを渡して入党を促し、ヒトラーは同月12日に入党した。1920年1月にはヒトラーと協力してハラーを党議長から追放し、自らが党議長に就任した。フェーダーとともにヒトラーに協力して綱領を策定し、同年2月24日、ホフブロイハウスの党大会で25カ条綱領が発表され、党名は国家社会主義ドイツ労働者党と改められた。ところが、党内でヒトラーの勢力が盤石になると、危機感を覚えたドレクスラーは、1921年6月、ヒトラーがベルリンに出かけている間に、無断で他の右翼政党との合併を協議し始めた。これを知ったヒトラーは7月11日に離党を宣言し、党幹部は引き留めに躍起になった。
ヒトラーは独裁権を条件に復党した。ドレクスラーは7月25日に、ヒトラーを危険人物だとミュンヘン警察に密告したが、取り合ってもらえなかった。7月29日にヒトラーが554票中553票で新党首に選出され、ドレクスラーは名誉党首となって実権を失った。1923年11月のミュンヘン一揆には、計画を聞いて恐れ、参加しなかったが、一揆の失敗後に逮捕された。党を離れて「民族ブロック」に参加し、1924年から1928年にバイエルン州議会議員を務めた。1925年にナチ党が再建されたときは加わらず、復党はヒトラー内閣成立後の1933年である。1934年には創設者として記念メダルを授与され、熱烈なヒトラー支持者になった。1937年ごろまで党の宣伝に利用されたが、権力は与えられなかった。ミュンヘンに隠棲し、1942年2月24日に同地で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- イレーヌ・ネミロフスキー (1942年没)
- フーゴー・ディストラー (1942年没)
- マルセーロ・アルベアール (1942年没)
- アレクサンドル・ベリャーエフ (1942年没)
- フェリックス・ヌスバウム (1942年没)
同じ地域に関係する人物
- ペドロ・ロドリゲス (1971年没)
- アンドレアス・リバヴィウス (1616年没)
- ヘルマン・オプリスト (1927年没)
- Rudolf Ismayr (1998年没)
- フランツ・フォン・パウラ・シュランク (1835年没)