伝記
ダニイル・ハルムスは、1905年12月30日(ロシア暦12月17日)にサンクトペテルブルクで生まれた、ソ連初期のシュルレアリスト、不条理詩人である。戯曲や児童文学などを書き、不条理文学の先駆者として注目され、創作期は1925年から1941年にわたる。本名はダニイル・イヴァーノヴィチ・ユヴァチョフで、署名にはハルムスをラテン文字化した名を使った。父イヴァン・ユヴァチョフは、反体制テロ組織「人民の意志」の周辺に属した人物として知られ、アレクサンドル3世に対する破壊活動に連座して収監された。シュリッセリブルク要塞に投獄され、のちにサハリンへ流刑となり、島を訪れたチェーホフと知り合ったという。母ナジェージダは、ハルムスの幼いころ、孤児のための学校で教師をしていた。ダニイルは次男で、前の年に生まれた兄は生後数か月で死んだ。のちに妹のエリザヴェータとナタリヤが生まれた。
父は国営貯蓄金庫の検査官として長旅に出ることが多かったが、ダニイルは父と生涯にわたって良好な関係を保った。のちに父はロシア各地の旅や精神的な主題について著作を書いた。ダニイルはペテルブルクの名門ドイツ人学校ペトリシューレに学んだが、1922年ごろ、成績不振のため退学になった。そのころすでに詩に関心を向け、「ハルムス」に通じる頭文字で署名していた。1924年にはレニングラードの第一電気工学学校に入ったが、1926年2月に欠席が多いため除籍された。それでも詩作は続け、1926年12月には前衛詩人の集団「左翼戦線」を作り、アレクサンドル・ヴヴェジェンスキーと実験劇団のために不条理劇を書いた。その公演の場所の借用で、国立芸術文化研究所の所長カジミール・マレーヴィチと会い、親交はマレーヴィチの死まで続いたという。
1927年に仲間の詩人ヴヴェジェンスキーやザボロツキーらとともに、前衛文学結社オベリウを設立した。「左翼」という語を名から外すことを条件に、出版会館の公式の部会となり、そこで新しい名が生まれた。未来派の影響下で芸術活動を行い、1928年1月24日には、出版会館で伝説的な朗読会「左翼の三時間」を開いた。第一部で宣言と詩を読み、第二部では、ハルムスが書いたばかりの戯曲『エリザヴェータ・バーム』を上演した。翌日の新聞は厳しい批評を載せた。当時の会員はハルムス、ヴヴェジェンスキー、バイテレフ、ヴァギノフ、ザボロツキーで、ヴァギノフとザボロツキーは同年10月に公式の会員から外れた。スターリンの権力が固まる中で、前衛的な集団は反体制の拠点と見られるようになり、彼は大人向けの前衛作品をほとんど発表できなくなった。
1930年代にソ連当局による文化、文学の統制が強化され、活動の自粛を余儀なくされた。マルシャークの紹介で児童向けの詩を書き始め、生前にはほとんど子供向けの詩や童話しか発表できなかった。しかし作風は危険視され、何度か逮捕された。1941年の逮捕が最後となり、1942年2月2日に収容所内の病院で死亡したとされる。その実験的な作品は地下出版によって読み継がれ、ペレストロイカ以降に評価が高まって、今日では児童文学の古典ともされる。
同じ年に亡くなった人物
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